令月下

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 花の色に朧とくすむ薄月の夜。百花(ひゃっか)を袖にし、花霞の(たもと)を翻す花神(かしん)は、氷玉や翠玉をちりばめた花冠をして、花の印を額に描く。  両手に赤い(ただ)れ痕は、真紅の花が綻ぶよう。その指先が、瑞枝(みずえ)に宿る赤い花芽を弾いた。腕輪の鈴が可憐に転がるように、蕾みは露を吹いて帯を解き、焼けた幹に、ただ一輪が躍る。 「令月の慶び極まりなし――」  月の光が冴え冴えと銀の光を注ぐ。花神は伸び上がり、潤う草花の囁きにうんと高く腕を上げた。  心地のよい風が花の誉れを四海に広め、誰もがこの一枝を見に押しかけてもおかしくはない。また、かつてのように……。そんな思いを胸に秘める。 「花神」  宵の花見客が、もう来たか。  と、影がさす背後を振り返る。  そこに若い男の顔を見て、花神は心の奥底で密かに落胆した。頭上に落ちた牡丹の影は、花唐草の透かしを施した絹傘が、月光を遮ったためであったらしい。 「まだ、冷えます。どうか、中へ」  伏せた目の先に花神の手を認め、彼は白い頬をそっと弛ませていう。  花神は柔らかく笑った。 「今年、ようやく一輪咲いたのだから、もう少し」  手の爛れは不正の痕。絹傘を翳す彼も、その意味は知っている。  祈るような固い面差しを見て、花神の笑みはすっと消えていた。  枯れ枝に絡まる月の姿を、透かして見あげる。  誰もが、この木を老木の枯れ木と思っていたに違いない。だが、失われていくばかりの花神の力と違い、この梅の木は命を漲らせていた。金雷に打たれ、青嵐に倒れ、苔に覆われた根はすでに腐っているというのに。まだ花を結び、花神の期待に応えようとする。 「花神の、献身的な支えがあってこそでしょう」  この山に花の木は一本だけ。人界の賑やかさとはかけ離れたこの幽遠な地に、麗しい青年を閉じ込めているような気がしてならなかった。  見放された花神に、すでに精としての力はない。千の枝に溢れんばかりの花がついていたのは、過去のことである。  花の美しさを妬んだ神の一人が、花神を地に貶めた。探湯(くかたち)によって裁かれたが、相手の手は少しと爛れることがなかった。美しいままの手は、正しさを証明する。  それもまた、遠い昔のことである。それでも時々、花神の両手は肉が剥がれるような痛みを思い出す。  開いたばかりの花びらが、呟く星の息吹きに耐えきれず散っていった。  奥ぐらい空の色は雨の匂いを纏っている。目の端にかけて、花神は木の幹を優しく撫でた。  二つ、重なる影は、残花を花見とし、淡い月の光を満たした杯を交わし、また、来春を待ち望む。  
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