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鈴玉枝、主に歯痛や腰痛などの痛み止めに使われる。但し変化薬を服用している者には禁忌であり鈴玉枝が入った薬を出してはいけない。
ロチは自作の手帳を見ながら、野生の鈴玉枝を採取した。今年の春は鈴玉枝を含め豊作だ。山の環境が以前よりも良くなっている。種を採取したらまた畑で栽培できる。そう思いながら、ロチは薬草が詰まった籠を背負い、額の三本角を揺らしながら家に戻った。
ロチの家は山の麓にある小さな薬屋だった。その薬屋の主はロチの師であり、名はレツという。ロチはレツに薬を学びながら薬師見習いとして生きてきた。そんなロチは今日も夕方まで薬草を取りに行って来た。昨年の冬は少しばかり暖かく、冬に取れる数々の薬草は山でも畑でもあまり取れず干し薬草でどうにかした。そのため春にたくさん取れるのはロチにとって嬉しいことだった。レツ師匠も喜ぶ、と思いながら陽が傾く山道を、包帯を巻いた健脚で下っていった。
「師匠!戻りました!」
閉店してまもない薬屋にロチの声が響いた。レツとされる薬師はゆっくりと瑠璃色の眼をロチに向ける。
「お帰りロチ。今年の春はどうだい?」
「今年は冬に比べて多く取れると思います。干し薬草も沢山作れるかと。」
ロチが広げた薬草をレツは一通り見る。ロチはその様子を見ながら、レツの反応を待った。ロチはレツの反応が好きだった。
「中々の量だ。これで残りの分は作れる。」
少し微笑んだレツを見て、ロチは嬉しくなった。明日も頑張ろうと、そう思えた。
「ところでロチ、私とロチ宛にこれが来た。」
レツの手には、西の封蝋で閉じられた文があった。ロチは初めて西の手紙を見た。レツはともかく、ロチは西のことは知らない。送り主の見当もつかなかった。
「師匠?誰からですか?」
「グレンツ魔術学校の学長様からだよ。私を教員として、ロチを中等教育部の中途学生として招きたいようだね。」
レツは手紙を読みながらロチに伝える。レツに端的に説明されても、ロチは理解が出来なかった。レツが口にする単語全てがロチにとっては難しく、初めて耳にする言葉ばかりだった。ロチは生まれてから、一度も学校に通ったことも、集団生活もしたことも無かった。しかし、ロチの目に映るレツは口角を上げながら、伏しがちな瑠璃の眼を手紙に向けていた。ロチはそれが何を意味するのか、よく分からなかった。
ロチは生まれてから一度も東の魔界から出たことはなく、外の世界はロチにとって未知で不思議で謎だらけな存在だった。この時点ではロチに、東の地から出て西へ行くなど思いも浮かばなかった。ロチの思う西とは、時折レツが目を向ける分厚い標題紙に封じられた、西の草花のことが描いてあるだろう書物だけだった。
「師匠?“がくせい”とは何ですか?」
ロチが出せる精一杯の質問だった。それを聴きレツは軽く口を開ける。
「学校という同じことを学ぶために集団行動する場所の、教えを請う立場の者のことさ。ロチはその立場、私は教えを授ける立場で西に行くことになる。」
レツの答えで、ようやく東の魔界から出ることを理解した。その瞬間、ロチの頭の中には様々な言葉がよぎっていく。今薬を出し続けている鬼達はどうなる?裏の畑は誰が管理する?今までの薬の記録は誰が管理する?とってきた薬草たちはどうする……。困惑したロチの顔を瑠璃の眼に写したレツは、ゆっくり口を開いた。
「ロチ、君が連想している事柄は薬師として当然のこと。私もよく考えている。鬼達は街の薬師に引き継いだ。薬の記録も裏の畑もね。ロチがとってきた薬草は半分干して持っていく。もう半分は種をとって西の畑で育てる。これで解消しただろう。」
レツはロチのことをいつでも見透かす。見透かすときは決まって、瑠璃の眼を真っ直ぐ向けてくるのだ。疑問が解消された今、ロチはレツに従うしかない。育ての親であり、薬の師匠でもある。学校に行かずに読み書きや山での動き方、薬の知識を手に入れ生活できているのはレツのお陰だった。そんなレツ宛の手紙の内容に背く理由はない。
「師匠、出発はいつ頃ですか?」
「三日後の夜だ。向こうに朝方に着くようにする。」
「分りました。」
そんなやり取りを交わした後、ロチは二階の居住場に登った。
居住場は薬草の香りがいつも漂っている。ロチはここでレツと暮らし、薬草の標本を作ったり、薬草のことを学んだりしていた。あるときはやり直しになり、あるときは褒められて大喜びした。そんなことをふと思い出しながらレツが用意した食事に手を付ける。レツがここを出ようと言うのは、初めてだった。突然の決定に、ロチは何も言えない。ただ、今までのように師匠に従っていれば間違いではないと、そう考えている。
食事を終えると、レツが来ないうちに簡単に身体を拭く。風呂は明日で良い。今日は寝よう。拭いているとき、腕の鱗が少し剥がれた。この鱗が何故剥がれるのかも、教えてくれたのはレツだった。ロチには蛇の血と鬼の血の二つが混ざっている。その為身体はその二つの特性を併せ持つ。この体質に付き合うための術も、何もかもレツが教えてくれた。それと同時に、この土地はレツが教えてくれないことも教えてくれた。例えば、山は天界との境目であるから鬼の血が流れている者は奥に行ってはいけないだとか、自分のような混血はあまりいないこととか……。
そんなことを考えながらロチは布団を引き床につく。少ししてレツも布団に入り、早々に寝息を立てた。そんな寝息を聞きながら、ロチは目をつむれずにいた。東の魔界を離れること、それに僅かな抵抗を感じる。気が向かない、とは少し異なる気がするが、ではどんな感覚なのかと聞かれると応えるのは難しい、そんな感覚がロチの中にはあった。だが、その感覚には従えない。レツ宛の手紙、あれはロチ宛でもある。自分に宛てられた初めての手紙である。その内容に従わなければ、この先、二度と自分なんかに手紙など来ないだろう。そんな思いもロチの中にあった。三日後の夜、ここを出よう。師匠と一緒に、どうやって行くのかは分らないが。
ロチは固く目をつむる。もう決まったことだ。ただ三日後を待つ。それだけだ。ロチが目をつむった時、僅かに空いた窓から天界の月が仄かに覗いていた。
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