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銭湯の煙突
#3
「なんで小声なの」
電話に出ると、サナは真っ先にそう言った。
確かに声をひそめていた。隣に聞こえるのではと無意識に小声で喋っていたようだ。
「引越したばかりだとなんか気を使うよ」
「えーっ、そんなキャラだっけ」
電話の向こうでサナがケラケラ笑う。僕も笑ってごまかす。
「引越しは終わったよ。いま部屋」
「どう、新しい部屋の住み心地は」
「リフォーム物件だからね、すごくきれいだよ」
「でしょう。不動産屋から最初に来た写真を見て一発で決めたのよ」
「えっ、ひょっとして、ひとつしか物件見てないの」
サナは当然というように、そうだよ、と言った。
「いいと思ったら即決める。不動産は生き物だから迷っていたら逃げちゃうのよ」
「そうだろうけど」
言葉に詰まった。僕なら散々迷って挙句の果てに決められずにいただろう。実行力でも僕はサナには敵わない。
もちろん、このアパートを一発で決めたのは僕にとっては最悪だ。サナには決して言えないけれど。
「窓からの景色どう?それだけは見てないから」
「高い建物がないから見晴らしもいいし、銭湯の煙突も見えていい感じだよ」
言った瞬間、僕はハッとした。
余計なことを言ったと。
銭湯の煙突は5年前にはあった。カナともよくその銭湯に行ったものだ。しかし、今回は確認していない。このご時世、銭湯はどんどんなくなっている。
慌てて窓から外を見る。
煙突は・・・なかった。
まずい。
「いいねぇ。一緒に銭湯行こうよ!」
サナのはしゃぐ声に僕は食い気味に言った。
「ちょっと待って。いや勘違いかも。今見たらないわ。他のものと見間違えたかも」
嫌な汗が、じんわりと脇に滲むのを感じた。
「他のものって何よ」
「なんだろ・・・電柱かな」
言いながら嘘っぽいと思った。電柱と銭湯の煙突と見間違える人間がいるだろうか。サナは洞察力が鋭い。僕の嘘をいつもすぐに見破る。調べる気になれば、5年前に銭湯があったかどうかネットで調べればすぐにわかるものを。
咄嗟の嘘は、いつも自分の首を絞める。
(ひょっとして、前にここに住んでた?)
サナの声が聞こえた気がして、僕はドキドキしながら無理矢理、話題を変えた。
「それより、明日だよね、帰って来るの」
「うん、昼には高円寺に着くから迎えに来て」
「わかった」
電話の切り際、サナは言った。
「銭湯の煙突、探しといてね」
「え、うん・・・」
電話を切ると、深いため息が漏れた。
僕はベッドに仰向けに寝転がり、両手で顔を覆う。
その時、LINEにメールが来た音がした。
サナからだった。
短い内容だったが、それを読み、僕は心底、ゾッすることになる。
『明日着いたらすぐに
お隣と階下の人に
ふたりで引越しの挨拶に行くので
よろしく!』
嘘だろ・・・。
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