チャイムを押す

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チャイムを押す

#4  引越した夜、僕はまんじりともせずに朝を迎えた。  朝までに、隣との壁に何度、耳を当てたかわからないが、テレビの音はずっとしていた。しかし、住人の声はしなかった。  ぼんやりとした頭でベッドに寝転んでいると、サナから電話が来た。 「起きてるよね」  エアターミナルのアナウンスの声が背後に聞こえる。着いたのだ。 「もちろん起きてるよ」 「嘘つかないで。声が眠てるから」  サナにはやはり嘘はつけない。僕は鉛のように重い体を起こす。  すでに10時を回っていた。 「12時には高円寺に着くから改札で」  こちらの返事も待たずにサナは電話を切った。  ベッドから起きると、真っ先に隣の壁に耳を当てたが、あまりに当て過ぎて耳が痛く、すぐに止めた。  引越しの挨拶のことを考えると気が滅入った。  サナはそういうことはちゃんとするのは知っていたから、考えればわかったことだったのに。  サナを迎えに行くまで、僕は何とか引越しの挨拶をしない方法を思案した。しかし、何ひとついいアイデアは浮かばなかった。    204号室はカナではないと、神に祈るしかなかった。     高円寺駅の改札でサナを待っていると、大きなキャリーケースを引っ張って彼女が僕に手を挙げた。  サナの美貌は光のオーラを纏っているように輝いて見えたが、同時に、悪魔の登場にも思えた。 「疲れたでしょ」  僕がそう言うと、サナは目を細めて顔を傾けて僕の顔の一部に目を凝らした。 「左耳どうした?赤いけど」  壁に当て続けていた耳を触る。火照っていた。 「あまり眠れなくて床に寝転んでいたら寝ちゃって。それで耳やられたらしい」  サナの表情をさりげなく見る。 「床で寝たの?」 「うん、そうらしい」  白々しい自分の嘘にビクビクした。 「それはご苦労様。今日はふたり、ベッドでスリーピングしましょ」  そういうと、僕の唇にキスをした。  以前は照れ臭かったが、人目も憚らずキスをされるのは、すでに慣れっこになっていた。  僕は手を伸ばして、サナのキャリーケースを掴んだ。 「やけに優しいじゃない」 「いつもでしょ」  サナは微笑んだが、僕の頭は引越しの挨拶のことでいっぱいで笑う余裕などなかった。  僕たちは高円寺の喫茶店で軽くランチをした。僕はひたすら台湾の話を話題にし、アパートのこと、失言だった銭湯の煙突のことに触れられないようにしていた。  一時凌ぎに過ぎないとわかっていながらも。  部屋に戻ると、サナはあちこち見て周り、 「きれいじゃない。上出来上出来」 と言って嬉しそうだった。僕はといえば、いつ、銭湯の煙突のことに触れられるかとドキドキしていた。  しかし、サナはなぜか銭湯の煙突には触れなかった。忘れたのか。いや、サナに限って忘れるはずがない。それが余計に不気味でもあった。 「さて、挨拶に行くか」 「え、もう?」 「こういうことは早い方がいいの」  サナはそういうとキャリーケースから小さな紙袋を2つ取り出す。 「台湾で人気のお菓子買ってきたの」  僕は、ありがとうと言ってから、トイレに行くと立ち上がった。往生際が悪い。ただの時間稼ぎだが、挨拶は1分でも遅くしたかった。 「まず204の人だね」  僕たちはすでに204号室の前に立っていた。  換気扇が回り、そこからニンニクを炒めたいい香りがしていた。 「お隣さんのランチ、ペペロンチーノかしら」  そう言ってサナが無邪気に微笑む。僕も笑顔を作ろうとしたが、出来なかった。   「私の予想では、お隣さん、若い女性ね」  胃がギュッと締め付けられる。 「なんでそう思うの」 「ほら、すりガラスのとこにカフェカーテンが吊ってある。男の人は絶対にしないわね」 「おばちゃんかもだよ」 「ううん。違うかわね」 「なんで」 「さっきベランダに出て204号室のベランダを見たのよ。洗濯物がかかってた。若い女性の服だった。それと、下着は干してなかった。部屋干ししてるわね。それって若い女性なら常識」  サナがベランダに出たのは、おそらく僕がトイレに入った時だろう。だとしたら、銭湯の煙突も電柱もないことにも気づいたはずなのに。  なぜそのことを口にしないのか、訝った。 「ついでに言うなら、料理好きね。壁に耳を当てたら料理番組が流れてた」 「それはさぁ、たまたまじゃない?」  笑おうとするとサナはドキッとすることを言った。 「ううん。実はね、聞いたのよ」 「何を」 「隣の人の声」 「・・・!」 「年齢は私と同じくらいの感じかな。たぶんレシピを見て勉強してるのね、材料を確認してた。私なんかそんなことしたことないわよ、ふふ」  そう言うと、僕をゆっくりと振り返って微笑む。その顔は、まるで何もかも知っているのよ、と言わんばかりに見え、悪魔の微笑みに見えた。  僕は耐えきれず、眼を逸らす。 「じゃあ、チャイム押すから、ちゃんと挨拶してよ」 「う、うん」  ピンポーン。  死刑執行の時間が来た。  部屋の中から女性のはーいという声がした気がしたが、カナの声かどうかわからなかった。  しかし、声がした割にドアはすぐには開かなかった。 「料理中だから手が離せないのかな」 「そうかもだよ。下の部屋に行く?」  モニター付インターフォンではないので、おそらく、ドアについた小さな丸いレンズの穴から外を覗いているのだと思った。  カナは昔もそうやってからでないと絶対にドアを開けなかった。 「何いっての。もうチャイム鳴らしたのよ」  僕の心臓は早鐘を打ち、暑くもないのに額から頬にかけて汗がスーッと流れた。  浅い呼吸を繰り返す。頭がフラフラする。  過呼吸?  じれったくなったのか、サナが声を出す。 「すみませーん、隣に引越して来た者です。ご挨拶に来ましたぁ」  その言葉に反応するように、キーチェーンを外す音した。カナはいつでも鍵を閉め、キーチェーンも忘れない。  続いて、鍵の開く音がした。  ガチャ。  サナが頭を回し、背後にいる僕を振り返る。 「よかったね、宮内さん留守じゃなくて」 「・・・!」  なぜ、その名前を・・・。  その時、ハッと思い出す。  サナのキャリーケースを持って先に階段を上がって来たが、サナはすぐには上がって来なかった。どうしたのかと見ると、階段の下から出て来るのがわかった。  階段の下にあるのは・・・部屋番号とネームプレートの入った、郵便ボックス。  なぜ気がつかなかったのだろうか・・・。  サナの言葉が頭の中で何度もリピートした。  よかったね宮内さん留守じゃなくて宮内さん留守じゃなくて宮内さん宮内さん宮内さん・・・・・・。   ドアが、ゆっくりと開く。               【了】
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