咲け、咲くな、咲いて

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「来年は……こうやって桜が見られるかな」  満開の桜並木の下、私の横をゆっくり歩く夫がつぶやいた。  ーーー余命1年。  冬に入る前の健康診断で異常が見つかり、年明けにはそう告知された。 「見られるわよ、きっと」  それから半年後、転がり落ちるように容態が悪化していった。  年末からは入退院を繰り返し、数日起きられない事もあった。 「桜……。満開の桜がもう一度見たい。君と、一緒に」  既に自力で歩く事もままならない夫。  痛みと苦しみに耐え、時に死への恐怖を忘れがちになる。  それでもまだ、生きる希望を何度も拾い上げる。  そんな夫に私はそばにいることしかできない。  安易なことは言えない。  だけど「えぇ。私が車椅子を押していくわ」と笑顔を返すことはできる。  ニュースで告げられた。  今年は寒さで桜の開花が遅くなる、と。  ダメよ、桜。  早く咲いて頂戴。  夫が消えてしまう前に。  ダメよ、桜。  まだ咲かないで頂戴。  夫の生きる希望が消えてしまうから。  ダメよ、あなた。  まだ消えないで頂戴。  一緒にお花見、するのでしょう……? 「あなた、お花見しましょう」  病室のベッドから夫を車椅子へ移動させ、ゆっくりエレベーターで降りる。 「桜並木ではないけれど」  そう言って病院の駐車場に咲く、1本の早咲きの桜の木の下へ向かう。  桜を見られなかったなんて悔やんで欲しくない、そんな想いだった。  夫は何も言わず、ただ七分咲きの桜を眺めていた。  その後、夫は驚くほどの回復を見せた。  病気が治ったわけではない。  だけど、明らかに生きる意欲が増していた。 「やっぱりあの桜並木に行きたい。咲いたら連れて行ってくれないか」  この世の最後の記憶として、ふたりで見た最後の記憶として、美しく儚い景色を眺めたいと。  寒さが解け、一気に暖かくなった。  桜並木の花も一気に開花した。  夫も……自力で歩き出すのではないかと思えるほど元気になった。  タクシーと車椅子を使い、私たちは桜並木へ向かった。 「キレイだね」 「キレイね」  ありがとう、桜。  夫に美しい姿を見せてくれて。  ありがとう、桜。  夫の元気な姿を見せてくれて。  私たち2人は目を瞑っても思い描けるほど長い時間、姿を眺めていた。  そして桜の花が散り終わる頃、夫はこの世から旅立って行った。  きっと、花筏に乗って。
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