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001
0と1の世界で生きてきた。
計算された世界にしか興味がなかった。
花の良さも、酒の美味さもわからなかった。
それでもこの場所に座っているのは、ただ単に仕事上の付き合いに過ぎなかった。
赤でも白でもない。夏でも冬でもない。生でも死でもない。そんな曖昧さに"美"を感じることはできなかった。
振り落ちる花びらは、この世界のノイズでしかない。
そんなことを考えながら、いくつかの輪から外れてひとり飲んでいると、左の隙間に人影が降りた。
「こんにちは」
聞き覚えのない高い声に、前を向いたまま軽く会釈を返す。ふわり漂う甘い香りが、視線を向けるのをためらわせる。
「事務の――です」
名前はよく聞き取れなかった。耳を傾けていなかった。
業務上、事務職と関わることはめったにない。おそらく知らない女性だろう。もっとも、顔を合わせたことがあったとしても、覚えている自信はない。
「どうも」
適当な返事で流そうとするも、名前を聞かれたのでしょうがなく答える。
「あ、エンジニアの」
一方的に知られているのは気持ちが悪いが、社内で変わり者と噂されているのは自覚している。機械のようだと揶揄されているのも知っている。
そんなことすらどうでもいい。
自分はただ、コンピュータの世界でのみ生きる。それに必要な仕事はする。必要な人間関係であれは構築する。それだけだ。
それ以外の声は雑音にもならない。
「うちのシステムのほとんどを作っていらっしゃるんですよね?」
「お仕事大変じゃないですか?」
「ちゃんとお休み取れてますか?」
風景の一部のような女性の声に適当に相槌を打っていると、しばらく間が空いた。
その間を風が過ぎる。
「あ、髪に花びらついてますよ」
反射的に視線を斜めに上げると、声の源がそこにあった。
「すみません、嘘です」
人と目なんてもう何年も合わせたことがない。それなのに、その大きく丸い瞳に視界が吸い込まれていく。
「やっとこっち見てくれましたね」
アルコールが脳を麻痺させた可能性は否めない。ただ、消えそうなピンクよりも、溶けそうな青よりも、まったく異なる波形の電気信号で、彼女の顔が浮かび上がった。
これを"綺麗"と呼称するとしたら、こんなに綺麗な人を、物を、この目に映したことはなかった。
人並みの知識と語彙で表現するなら、恥も外聞も捨てるなら、一目惚れという単語が適しているだろう。
0と1の世界では、すべてがOnとOffで表される。有か無か。正か否か。
その中で彼女の存在が確かに灯り、その光はもう生涯消えることはないように思われた。
生きる世界がシフトする。
桜がひとひら舞い落ちる。
「きれいですね」
彼女が言った。
自分にはそうは思えなかった。
だけど、理解したいと初めて思えた。
だから、桜のシミュレーションをしてみようと思ったんだ。
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