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 彼女とふたりきりの季節は目まぐるしく過ぎていく。  夏、秋、冬が終わり、また春が来る。  花見日和の4月上旬、生まれた娘に「さくら」と名付けた。  子どもができるとさらに世界は変わった。  あんなに一筋だった仕事はどうでも良くなった。  "家族"を優先して、できる限り家で過ごした。  オペレーティングシステムが変わったように、物事の捉え方が一新された。  さくらはぐんぐんと大きくなった。  去年はまだ桜の下で抱きかかえられるだけだった生き物が、今年はもうその足で立とうとしている。  次の年には、桜の下で保育園の友達と走り回っていた。  会話ができるようになったかと思えば、自分や彼女の口癖がうつっている。  そしていくつかの季節を経て、保育園の卒園、小学校への入学。  気がつけば桜の木の下で、中学の制服に袖を通している。  桜が咲くたびに人生が進む。  思い出の桁が繰り上がる。  その分の涙が、花びらと一緒にこぼれ落ちる。  嬉しさと、寂しさと、驚きと、切なさと。  この涙はきっと計算できない。  今この瞬間、この場所で、この3人でしか生まれない涙。  唯一無二の感情。  これはきっと、美しい。  彼女と出会ってから。さくらが生まれてから。  自分の世界は変わった。  あの花見から。あの桜の木の下から。  生きる道が反転した。  誰と見るかで景色は変わる。  誰を想うかで花は色を変える。  それがきっと、美しさのシステムなんだ。
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