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2nd:大失敗
(あらいやだ、杖をバスに忘れてしまったわ……)
あまりにも綺麗だったから!と行き当たりばったり、途中下車したのは大失敗ね。
逸る気持ちに老いた体はいつもゆっくり。
桜並木を若い頃の感覚で歩きたいと考えたのが間違いだったのよ、と華は苦笑した。
白髪に花弁がひとひら。
そっと震える指で摘んで満開の桜を眺める。
『華ちゃん、俺が結婚しようって誘ったら結婚する?』
『冗談が上手いって言われてるでしょう? 楽君と私は年が十も違うじゃない。お姉さんを揶揄わないでくれる?』
『……え、そんなに年下に見える? 悔しいな、華ちゃんは桜みたいな薄紅色が良く似合う幼顔なのに』
ーーそれも桜の季節。
行き当たりばったりで"結婚"も置き忘れた。お姉さんより早く天国に逝ってしまうなんて意地悪よ。
桜みたいな色が似合うと言われた幼顔は、もう皺だらけ。白髪に着いた花弁は、色が浮いてしまってお洒落にも見えやしない。
「本当に、大失敗だわ」
明日から手術のために長期入院が予定されていた。
少し足を伸ばして化粧道具を買いに行ったのは……思い出した春に、逸る気持ちがあったから。
「あっ」
意図せず病気の悪戯で指の力が抜ける。
持っていた小さな紙袋は桜の絨毯に転がり、色々と買い求めた春色の化粧品が散らばった。
慌ててしゃがもうとして蹌踉ける。
「僕が拾います」
グイッと横から差し出された手に支えられて転倒から免れると、自分より三十は年下だと思われる青年が口紅を手にして相好を崩した。
「あなたに似合いそうな春の新色だ……」
華は驚きに目を瞬く。
青年は白髪についた花弁をスッと指で摘むと、口紅と見比べて華の至近距離まで顔を寄せた。まじまじと見つめられる。
「桜色が似合う、て誰かに言われたことは? 言われたことがないなら僕から是非」
ぽろっ。
涙が頬を伝っていたのも行き当たりばったりだとしたら、また大失敗。
「それは困るわね。白髪に桜は浮いてしまって、似合っていると言われても手遅れなのよ。桜に混ざりたくても、ふふっ、ほら……仲間外れ」
口紅を受け取ろうと伸ばした掌は病気の意思で微動する。化粧品を買っても上手に施すことはできないと、青年にも言外に伝わるだろうか。
逸る気持ちは老いた体を悩ませているのだと。
青年は口紅を渡そうとした手をピタリと止めた。
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