記憶

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 コーヒーを飲んで寛いでいた私は、唐突に、弾かれたように立ち上がった。えっ?と思わず声も漏れた。手にしていたコーヒーがこぼれたけれど、気にしている心の余裕はなかった。それほど唐突に、私の心が気味の悪さを捕らえていたのだ。といっても、不気味なものが見えたとかそういうわけではない。  ここは引っ越したばかりの、部屋の中だ。これから始まる大学生活に向けて、地方から、このひとり暮らしのワンルームマンションの一室に引っ越してきたのだ。ちょうど今日の朝引っ越しのトラックと共にここに来て、荷物の整理がある程度終わり、一息ついていた所だった。  気味の悪さの原因は、既視感だった。何故か、この部屋を私は知っている、と感じたのだ。単にそう感じただけなら、それほど驚いたりはしなかっただろう。実際、引っ越しをする前に下見などで2回ほどこの部屋には訪れているし、ネット上では何度もこの部屋を見ていたのだ。けれど、そういうことではなく。何故か自分がここで過ごしていたことがある、という感じがしたのだ。いや、感じというようなあいまいなものでもなく。私は確かにここで暮らしていたのだという事実を思い出した、という方が適切だろう。実際にはここで暮らしていたという事実なんてあるはずがないのだけれど。  ただ、暫くすると、その感覚も薄れ、次第に気のせいだろうと思えるようになった。引っ越したばかりの緊張が、私を何か変な気持ちにさせただけなのだろう。そう思い、私はようやくカップを机に置き、こぼれたコーヒーを拭いた。結局その夜はそれ以上おかしなことは起こらず、引っ越しの疲れもあったのだろう、ぐっすりと眠ることが出来た。  けれど。朝、目が覚めると、やはり私はここで暮らしていたことがある、と思った。ただ、朝で外が明るかったせいもあるのだろう、そこまで気味の悪い気持ちになることもなく、冷静でいられた私は、なぜこんな気持ちになるのかを考える事にした。最初に考えたのは、実際に子供の頃に偶然この部屋で、あるいはここととても似た部屋で過ごしていた事があるのではないか、という事だった。そこで、親に電話をして聞いてみたけれど、私は生まれた時からずっと実家で暮らしていた、と言われ、その考えは却下することになった。  次に考えたのは、例えば友達の家に止まって、その時の部屋がここと似ていた、というようなことだったけれど、これもすぐに却下した。私が感じているのは、そんな一時的なものではなく、ずっとこの部屋で過ごしていた、という感覚、というよりも記憶だからだ。  となると、信じているわけではないけれど、前世だとかそういうものの可能性もなくはない。けれど、これも却下することになった。私の記憶にあるのは比較的現代的な部屋だから、私が生まれる前の時代に実在した部屋の記憶だとは思えないからだ。だとすると。誰か、別の人の記憶という事なのだろうか。例えば、この部屋で暮らしていた誰かの記憶。それが私の中に入ってきたという事はないだろうか。  そんなふうに考えたりもしたけれど、結局何も分からないまま、その日は過ぎた。そして日が経つうちに、少しずつそのことも気にならなくなっていった。というより、考える事に疲れて、考える事から逃げて、気のせいだと思い込もうとしたのだ。  それが悪かったのだ。逃げずに考えて、問題を解決しようとしていればよかったのだけれど。いや、仮に解決しようとしていたとしても、どうにもならなかったのかもしれないけれど。いずれにしても、もう遅かった。
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