15人が本棚に入れています
本棚に追加
――遥か昔、四月一日は人々の心に春の安らぎを与える神であった。冬の間、寒さや飢餓に苦しむ人々に春の夢を見せ、不安や恐れから心を守る優しき神。
四月一日に縋り生きていた人々はある時、旅の僧侶に諭され、現実と向き合わねば問題の解決に至らぬと気付く。そして人々は四月一日を村から追い出し、自ら辛く苦しい現実を選んだのだ。
愛し守ってきた人々に裏切られた四月一日は、自分を嘘つき呼ばわりした人間を憎むようになった。そして心の弱い人間を甘い嘘でかどわかし、その魂を喰らう妖怪となった彼は、数百年前とある高僧により封じられた。
四月一日が封じられていた狭間の小路には、迷える魂が時折やってくる。少女もその一人だった。現実に傷付けられた弱く哀れな生き物。嘘を必要とする可哀想で可愛い人間。
四月一日は少女を標的とした。
カツン、カツン。廊下に足音が響く。それは悪魔か死神か。救いようのない愚かな私を、少年がわらう。
「嬉し泣きかい?」
「……皐月を返して」
「何言ってるの? 君が望んで彼女を消したくせに」
それは違う! と叫びたいのに声が萎んだ。心の奥に眠らせた真実に触れようとすると、擦りむいたばかりの傷みたいにジクジク痛む。
「私は……皐月に居なくなって欲しいなんて、思ってない」
「ハイ、それは嘘だね。だって彼女は君の恋敵だったんでしょ」
ワタヌキの姿が魔法みたいに光って弥生に変わった。優しい微笑みが、甘い吐息が、私の決意を揺るがそうとしている。
「泣くなよ」
弥生が私の頬に手を添え、その顔を近付けてきた。
「私は、」
声が掠れる。重い真実が喉に詰まる。でも言わなくちゃ。じゃないと私はもう二度と、あのやかましい笑顔に会えない。……残念ながら何か勘違いをしているこの大妖怪に、盛大な“真実”をかましてやらなければ!
「私は! 私が好きなのはっ――皐月なの! 出会った時からずっと――あの子が大好きなの!」
「えっ、うそ!?」
ようやくだ。ようやくそれを口に出来た私は、じんわり胸に広がる悲しみを受け止める。
「ほんと。だから、こんな嘘の世界は要らない!」
ピシッと皹が入ったような音。真実が、嘘の結界を破る。
白んでいく世界で、多分私は勝ったのだと思った。ワタヌキに。自分自身に。
「なあんだ。ただの人間かと思ったら天邪鬼だったとはね。あーあ、すっかり騙されちゃった。……君にも、嘘は必要なかったんだね」
ワタヌキはすっかり元の姿に戻り、つまらなそうに白い世界をプカプカ浮いている。
「……私、やっぱり時には嘘も必要だと思う。でも……自分に嘘をつくのだけは、いけないと思った」
私が皐月についた『おめでとう』という嘘。そして――誤魔化し笑いで冗談にしてしまった“本当の気持ち”。一連の出来事は、自分の心を蔑ろにして傷付けた私への天罰なのかもしれない。罰にしては甘かったけれど。
「ワタヌキ、有難う。お陰で現実に向き合う覚悟が出来たよ」
その丸い瞳に見守られながら、私は光に包まれた。
「……なんで人間は真実に拘るんだろうね? サッパリ理解できないよ」
最初のコメントを投稿しよう!