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彼、ときどき眼鏡
「あ」
天川という人物に直で触れるようになって、もう一つ知ったことがある。
「天川って、眼鏡掛けるの?」
隣の席の常駐が彼になってから、一週間ほどだろうか。
五時間目の倫理が始まる前に、さり気ない仕種で何かを取り出し、それをすちゃと目許に掛け、澄ました眼鏡姿の佇まいを見せている彼に、思わず声を掛けた。
「うん……。後ろの席で、黒板が見えづらい時だけ。……倫理の須賀先生、字小さいじゃん。カタカナで長い名前いっぱい書くし」
「ああアリスとかソフィア系の、ファンタジーっぽい奴な。へえー、そうなんだあ。一年の時も、気付かなかったなあ」
「いつもじゃないから。家でも使ってないし。後ろの方で、本当に見えない時だけ使ってる」
「へえー、じゃあきっと俺だけが知ってる、レアな姿なんだな」
特別を知った気がして、気を良くしていたら、
「天川君、眼鏡掛けるのお?」
「ほんとだあ! 知的な感じい」
三上と田端の、前の席のギャル二人に見つかってしまった。
まじまじと覗き込むふたりに、天川は怖じる風でもなく、でも照れとおどけ半分みたいな表情で片手で眼鏡を隠し、はにかんでいた。
「あー、照れてるう」「透君可愛いー」
正直に、隣が女子だったらという淡い期待がなかった訳でもない。
でも受験まで間もないこの期間を、ややこしい感情を隣に引き摺ったり圧の強い前二人の類いに当たるよりかは、
今まで親しくしたタイプとは違うけど、勉強に水を刺されるなんて勿論なく、
時々控えめな眼鏡姿を一番に披露して、俺の声掛けにも物静かに応えてくれる彼が隣というのは、充分に上々という感触だった。
「頭倒さに手を垂れて 汚れ木綿の屋蓋のもと」
黒縁の眼鏡を掛けたまま、ノートを片す天川にはまだ先程の不思議な音韻が絡んでいるようで、その心地のまま声を掛ける。
「天川って、国語の教科書読むの 上手な」
ひと息吐くように眼鏡を外し、こちらへ振り向いたのは、もう馴染んだはにかみだった。
「大学は文系行くの? だよな。だってあんな擬音笑いなしで読めるなんて、中々ないよ」
「上手に読めるからって勉強が出来るとは限らないよ。……偶々家に子供向けの本が沢山あるんだよ」
「何で?」
「父親が、児童文学を大学で教えてるから……」
「ええ凄え! 進路確定じゃん! やっぱ文系だろ?」
「……そうだけど、煮え切らない俺に代わって、親父が俺でも入れそうな大学薦めてるだけだよ。結局やりたい事が見つけられないまま、親の用意した枠に敷かれてる……。情けないよ」
本を読むのが上手なのは、三歳下の妹がいて小さい時よく読んであげていたから。
妹は優秀で、その方面の母親からの期待はそちらに任せているとのこと。
整えた環境でも悩むことがあるんだなと、睫毛の伏せた横顔をしげしげと眺める。
「……キズキ君は?」
山田絆生という凡庸な苗字のお陰で、名前呼びが定着している俺に天川もいつしかそれに倣っていた。
「俺え? 俺も同じだよ。やりたい事とかどうなりたいとか、正直判んないよまだ。
サッカーは高校まででいいし、理数系の科目の方が好きだけど、学部は将来潰しが利きそうな経済とか商学とか、そんなとこで良いかなあなんて思ってる、舐めたもんだよ」
「それだけ自分や方向性が解ってるなら、充分だと思うよ」
「そうかあ? あっ、優秀な奴と比べられてきつい件なら俺も解るよ。タメの従兄弟がさ、顔も良くて昔からバスケも全国大会、第一志望は関西のR大で、卒業したら、消防士になるのが夢なんだって!」
「うわあ……。嫌だね、そんな立派な親戚」
いかにも体育会系とは無縁の風貌が、同情じみた苦笑で応えてくれた。
「まあいいじゃん。やりたい事見つかっても見つかんなくても。
一緒に、緩く探していけたらさ」
控えめな幅の黒目がきょと、とした後、
うん。
膨れた涙袋の上でほそめられて、滲み出た微笑みに、実は結構癒されたのだ。
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