逆さブランコから降りるように

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逆さブランコから降りるように

 六月を超え、晴天に初夏の快活さが薫るようになり、 昨日遠出した芸術鑑賞、結構愉しかったよなと隣の天川に感想を求めようとしたところ、 明らかにおかしい。  豆腐みたいな顔が、白を超え、生き物として危うい蒼白に陥っている。  細い腕を抱きながら、それは小刻みに震えているようだった。 「えっ、何どうした?」 「近寄らないで……! 多分、何か感染(かか)った……っ」  もう、帰る。喘ぐように呟いて、まだ朝のHRを終えたばかりなのに、机に出し途中だった筆記具をふらふら鞄に戻して、そのまま抱え込むように席を立ち、まだ残っていた先生のもとへ覚束ないながらも早足で遠ざかっていく。  先生の顔色が変わり、ふと隣の机を見たら、ぽつんと細長の、彼の眼鏡ケースが独り取り残されていた。  あ、眼鏡。  再び前方を向いたら、まさに先生に支えられ天川の背が入口から抜けようとしていた。  天川、眼鏡。  ここでしか使わないと言っていた。事実、普段は机に置きっ放しにしていたのかも知れない。  だけど、本人の意思なく放置や、安価な品ではないかも知れないし、 何より、そのままそれを置き去りにすることを、俺の何かが嫌がっていた。  束の間、迷ったすえ、  直接渡そう。  その確信のまま、俺は彼の眼鏡をリュックのポケットにしまった。  翌日、担任から天川は季節外れのインフルエンザに罹患したと報告があった。  移動中に感染(もら)ったのだろうか。可哀想に。  次の登校いつだろう。来週には、来るかな。 「キズキ君、寂しそー」「大人しいけど、透君やっぱいないと静かあ」  前のギャルにのほほんと慰められ、 そうだよお。だって天川(あいつ)、豆腐みたいで俺の癒しだったんだから。  あと、眼鏡渡さなくちゃ。  密かな決意と、彼の眼鏡をリュックになお大事にしまったまま、天川がまた俺の隣にやって来るのを、しっかりと待っていた。  天川は、その後俺の隣に現れなかった。  二度と、学校へ来ることはなかった。  あいつは、いつから逆さ吊りのブランコに乗った状態だったのだろう。  ウィルスに侵されて、あいつの深淵まで侵蝕していた家庭というテントに篭っている間、あいつに一体何があったのか、俺の知る術はない。  ブランコから降りるのは簡単だ。  だけどあいつは、自分の存在意義という根幹を揺るがした両親を滅多刺しにして、 誰も届かない、ひとの(ことわり)や自己、人生をも越えた真っ暗闇のなかへ、躊躇いなく身を投じてしまったんだ。
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