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独唱03 湧き上がる渇望
田舎の実家に帰ってきた彩歌は、心の澱みが晴れず歌えなくなった。
「彩歌、無理して歌わなくていい。そのうち心が歌いたいと思うようになるから」
「……うん」
「厳しい世界とは言ったけど、まさかこんな事でダメになるとはね…」
「暫くは無理。心が受け付けない」
「分かった。好きにすればいいよ。ここはあなたの家。好きなだけ居ていいから」
「ごめんね、お母さん」
早々に、実家に戻ってきてしまった彩歌だけれど、
母親は、これまで通り普通に接してくれる。
それが彩歌には、有難かった。
□◆□◆□◆□
実家に戻って数ヵ月が過ぎた。
毎日朝起きて、母親の音楽教室を手伝い、
子供たちに歌やピアノを教える。
子供たちの純粋な声は、彩歌の心を癒していった。
「せんせー、こんにちはぁ」
「はい、こんにちは。じゃあ、先週の復習からね?ちかちゃん、毎日指を動かして、練習してきたかな?」
「はいっ。ちゃんと練習すると、面白いほど指が動くの。最後まで弾けるようになったよっ」
「練習は裏切らないからね。必ず、ちかちゃんの力になる。毎日少しずつ動かしてね。せっかく自由に動くようになった指が、また動かなくなるから」
子供は、にっこり笑って、こくこくと首を振った。
その笑顔を見て、彩歌の心の澱みは洗われる。
「じゃあ、練習の成果を見せてくれるかな?」
こうして今日も、子供たちの隣で、一日を終えた。
□◆□◆□◆□
子供たちのお陰で、心が真っ新になると、
彩歌の中に、沸々と歌いたい欲求が湧いてくる。
だけど、もう一度同じことをすれば、
再びあの醜い声を聞くことになると思うと、
なかなか決心がつかなかった。
そんな、もやもやとした心を持て余し、
彩歌は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
シンと音のない窓の外。
空には、まん丸の月。
今日の月は、十六夜だった。
夜が更けるのを待ちわびて現れる月、という意味がある。
彩歌は、月明かりの下に出掛けてみようと思った。
自転車に乗り、海岸沿いを目指す。
眠りに落ちた、静かな町を走り抜ける。
田舎独特の、街灯の明かりのみが、ぽつぽつと照らす道を抜け、
月明かりが指し示す方角へ向かう。
やがて聞こえてくる静かな波音。
程なくして彩歌は、堤防が連なる海岸線に到着した。
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