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22、左利きの侍女頭(3)
翌日。
朝食をエビチリ焼売や旬の青野菜の炒め物を食堂でつまんでいると、芥子の香りがして、桜綾がお饅頭を目の前に置いてくれた。
「今日からお仕事なの?」
「はい。お饅頭ありがとうございます、おいひいです、あふ、あつ……」
「ふふ、ゆっくり食べて。顔色が悪いけど、眠れなかったの?」
昨夜の会話を思い出して、紺紺は視線をお饅頭に落とした。
ふかふかのお饅頭は、真っ白で美味しい。
もぐもぐと味わっていると、「昨夜の出来事は夢だったんじゃないかな?」って気になってくる。
紺紺は「ちょっと確かめてみようか」と顔をあげた。
「桜綾様も、昨夜遅くまでお仕事だったんですよね? お疲れ様です」
「ありがとう。上司が無能だと苦労するのよ。咸白宮に配属されちゃって、可哀想に。お互い不運ね」
「えっ」
上司が無能なんて言っていいの?
紺紺はこっそりと周囲を確認した。
「紺紺さん、今日は刺繍をするの? たぶん、雨萱様は『刺繍は体を動かさないから楽だろう』と思ったのね。でも、体を動かさなくても刺繍は集中力を要するし、神経を削られる作業で、目も疲れるし。辛いわね」
「あっ。私、刺繍は嫌いじゃないです。好きです、お仕事楽しみです。あと、元気なんですよ!」
桜綾は眉をあげ、ちょっと不機嫌そうな顔になった。
「雨萱様は、良い人そうに見えるでしょ」
「はい」
「騙されちゃだめよ。あなたみたいな純朴な子が一番利用されやすいの」
言うだけ言って、桜綾は離れていった。
なんだったんだろう?
食事を終えて裁縫室に行くと、雨萱が方卓を拭いていた。
「紺紺さん、おはよう。今日からお仕事ね……あら? 昨夜はよく眠れなかったのかしら。大丈夫? お仕事は明日からにしましょうかしら?」
「おはようございます、雨萱様。私、眠くないです。お仕事やる気満々で参りました!」
「そう? お昼休憩を長くとるから、寝れそうだったらお昼寝するといいかしら」
裁縫室は、上質な布と色とりどりの糸巻、見本用の図案集が並んでいて、見ているだけでワクワクする。籠や衣掛けには、完成済の見事な蘇州刺繍が置かれていた。
蘇州は東南にある州で、養蚕業と絹糸で知られている。
宮殿内には東南産の青花陶器も散見されるし、彰鈴妃は東南文化を愛好しているのかもしれない。
「体調が悪かったり、困っていることがあったら言ってほしいの。気を使ってしまったり、事情があったり、なかなか難しいかもしれないけど……ひとりで抱えこんだりはしないでほしいかしら」
雨萱を見ていると、桜綾の姿が思い出される。
「あのう。桜綾さんは、お疲れのようでした」
前に会った時も思ったが、桜綾は痩せていて疲れているように見えるのだ。
それを言えば、雨萱は困り顔をした。
「彼女は私の同期で、以前は仲が良かったのだけど、最近は何を言っても拒絶されるようになってしまって……休んでと言っても休まないし、『何かに困っているなら助けになりたい』と言っても教えてくれないの」
優しそうな言い方。
桜綾は『騙されないで』と言っていたけど?
「おはようございます」
「あっ。噂の新人ちゃんですね」
首をかしげていると、何人かの侍女がやってきた。
席を選んで座っていくみんなは、紺紺より年上だ。
「この子は新人の紺紺さんよ。仲良くしてあげてね」
と紹介して、雨萱は別の仕事場へと移動していった。
「新入りさんは、どの地方から来たの?」
「好きな人いる?」
他愛もない雑談をしながら刺繍をする時間は、居心地がよかった。おやつに桃饅頭が差し入れされたりもして、紺紺は「いい待遇だな」と思った。
しばらくして、窓からひょいっと白猫が入ってくる。
「あら、猫が迷い込んできたのね」
「そういえば、最近、主上が猫を後宮で放し飼いにしていると聞いたわ」
侍女たちは「猫様をお接待すべき?」と視線を交わし合い、お皿にお水を入れて白猫の前に置いてみたりしている。
白猫は「気高い私はお皿に入れられた水を舐めたりしませんが?」という態度でツンとそっぽを向き、裁縫台に身軽に飛び乗った。
「ひゃっ、猫様がいらしたわ。私、猫は苦手なの!」
近くにいた侍女がビクッとして距離を取って逃げてくる。
「席を代わってよう!」と頼まれて、紺紺は白猫の近くの席に移動した。この白猫は先見の公子だ、と思いながら。
「えっと、猫さんは怖くないですよ。人に懐いています。ほら」
「ふーっ」
「きゃっ、猫様がお怒りになったわ!」
怖くない証拠を見せようと思って撫でようとすると、白猫は「無礼者」というように威嚇してきた。
せっかく「怖くない」と言ってあげたのに。
「……ちょっかい出さなかったら、大人しいと思います」
放置しよう。
そう決めて刺繍仕事に没頭すれば、先見の公子だと思われる白猫は、じっと手元を見つめている。
監督されている気分だ。
そういえば先見の公子が霞幽だとすると、白家の嫡男としての生活はどうなっているのだろう。嫡男というと忙しいはずだし、霞幽の場合は白家の実権を掌握しているので実質当主のようなものなのでは?
それに、もしかして用事があるのでは?
いつも話したいことがある時に寄ってくる気が。
じっと見ているのは……「察して外に出ろ」と言われていたり?
「私、ちょっと席を外しま……」
腰を浮かしかけた時、扉が開く。
「そろそろ彰鈴妃が華蝶妃様とのお茶会にお出かけよ。何人か、接遇対応を手伝ってもらう予定だったわね。遅れずに準備してちょうだい」
「はぁーい」
「お相手は格上だし、失礼は許されないわよ」
本日は、特別な予定があったらしい。
華蝶妃というのは黒貴妃のことだ。
名前や称号が入り乱れていて、覚えるのが大変である。
数人の古参らしき侍女が駆り出されていく中、白猫も窓から出ていく。
それがちょっと慌てた様子にも見えて、紺紺は「珍しい」と思った。
新人の紺紺は、裁縫室で刺繍続行だ。
ひと針、ひと針、布に糸を通していく作業は時間がかかる。
完成図を思うと、完成までが果てしなく遠く思える。
でも、地道に縫い続けていると、「あ、進んでる」という気づきが得られる瞬間もあって、楽しい。
「紺紺さん、丁寧で綺麗」
「えへへ。いい出来かも……」
この質を落とさないように最後まで縫おう。
紺紺が目をキラキラさせてやる気になっていると、外が騒がしくなった。たくさんの人の足音や、声がする。物々しい。
なんだろう、と思っていると、侍女と一緒に宦官の楊釗が入ってくる。
楊釗は、宮中の秩序を取り締まる『宮正』の下っ端だったはずだ。
「何事ですか?」
困惑する裁縫室の侍女たちに「動くな」と命じて、楊釗は告げた。
「茶会で毒殺未遂事件が発生し、毒を盛ったと思われる咸白宮の侍女頭が拘束された。他に協力者がいないか、また毒物を隠していないか、これより調べさせてもらう」
あれ、これって――?
紺紺は霞幽からの手紙を思い出した。
『悪女としてお気に入りの侍女と断罪されるかもしれない。詳細不明』
……断罪されてしまうのでは?
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