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すれ違いの秘密
「絶対に秘密にしてくれよな」
そう言ってわざとらしく人差し指を鼻に当てるユウトを、おれは半ば放心状態で見ていた。少し照れくさそうに視線を彷徨わせ、耳をほんのり赤く染めている姿を見て、事実なんだということを確信する。
おれはたった今ユウトから、「昨日、彼女ができた」という衝撃のひと言を告げられたのだ。
じわじわと胸に広がる、イラつきとも寂しさとも似たような、飲み込みにくい感情。これの正体が劣等感だと自覚したとき、おれは2つの意味でショックを受けた。1つは、親友の幸せを素直に喜んであげられていないこと。もう1つは、先を越された、というしょうもない単語が脳裏を掠めたこと。
おれがそんなショックを受けているとも知らず、ユウトはいかにして彼女への告白を成功させたかを大袈裟な身振りまで交えて解説しているようだが、おれの耳にはほとんど入ってこなかった。
「そんなわけで、今日からしばらくは一緒に帰れないんだ。悪いな」
かろうじてそこだけは聞き取れたが、どうやらそれが話の締めだったらしく、ユウトはそのまま立ち去ろうとしてしまう。
「……なんで?」
引き止めるつもりもなかったのに、無意識に声が出た。
「いやだから、その彼女と一緒に帰るからさ」
「そうじゃなくて、なんでおれには言ったんだ?絶対に秘密なんじゃないのかよ」
我ながら意地の悪い声が出ている。親友のおれには真っ先に言っておきたいと思ってくれたからに決まっているのに、おれはわざわざこんな質問をしている。嫌味ったらしく。
「そりゃあ……ヒロは親友だし、真っ先に言っておきたいと思ったから。それに、ヒロにはたぶん、すぐにバレると思ったし」
なんでそんな当たり前のことを聞かれているのかわからない、といった困惑を浮かべながらも、ユウトはそう言ってくれた。
想像通りすぎるまっすぐな答えに、おれの胸が痛む。なに聞いてんだ、おれ。
わかった、じゃあ。おう、また明日。そんな簡単なやり取りを最後に、おれたちは別れた。
◇
「うおおおおおおお!!!」
帰り道。高校への往復で毎日通る坂道を、大声を上げながら自転車で駆け上る。
田舎道なこともあって、周りは田んぼと畑ばかりだ。人っこひとりいやしない。どうせ誰にも聞かれはしないし、今日なら誰かに聞かれたところでどうでもいいと思った。おれはわかりやすく、自棄をおこしていた。
「くそっ! くそっ! なにが彼女ができましただ! 『おれたち、モテないもの同士これからも仲良くしようぜ』とか言ってきたのはそっちだろうが!」
ユウトとは中学1年の時、同じクラスになってから仲良くなった。ゲームの趣味や好きなマンガが同じというだけで、あっという間に親友と呼べる仲になり、土日は用でもない限りどちらかの家に転がり込んで一日中遊んでいた。通っていた塾や進学先の高校もぐうぜん被り、登下校まで一緒にしていたものだから「お前ら付き合ってるだろ」なんていじられたことも1回や2回じゃない。
あまりに一緒に行動していたものだから当然お互いに女っ気など全くなく、彼女どころか女友達さえまともできずに、高校3年生になってしまっていた。モテないもの同士、と言われたのだって、つい去年のことだ。
「ああもう! くそっ! なにが『絶対に秘密なんじゃないのかよ』だ! あんな嫌味くさいこと言って! 嘘でもいいからおめでとうって言って、羨ましいぞこいつ〜とか言って、この裏切り者が〜とかって首しめて、ヘラヘラしてればそれでよかったじゃねえか!!」
あの場の空気を、おれは間違いなく悪くした。悔しかろうがなんだろうが、まずは祝ってあげるのが親友なんじゃないのか。ユウトの幸せに、おれは水を差した。その事実が今になって、後悔としておれを襲ってきていた。
友人が一歩先を行ったことは事実で、でもそれはお祝いするべきことで、でもおれはその事実が悔しくて素直に祝えなくて、でも祝ってあげたほうが人間としては正しいはずで、でも、でも、でも、でも……
「くっそお!!」
一際大きい声が出た。こんなに全力で自転車を漕いでいるのに、まだ田舎道が続いてる。いつもより、家がずっと遠くに感じた。
◇
「ただいまー。……え、なにやってんの?」
声がして、それをきっかけにおれの視界に光が戻ってくる。リビングのソファから身体を起こすと、節々が妙に軋んだ。どうやら帰ってきてからすぐに寝てしまったようだ。服装は制服のままだし、カバンはソファの脇に投げ出してあるし、そりゃなにやってんのとも思うよな。
声の主は妹のミヅキだった。おれの2個年下で、同じ高校の1年生だ。中学の時からやっていた吹奏楽を今も続けているので、帰りはいつもおれより遅い。時計を見ると、もう19時を回っていた。
「大丈夫? 具合悪いの?」
心配そうに駆け寄ってきて、眉毛をハの字にしておれの顔を覗き込んでくるミヅキ。おれにはもったいないくらい、よくできた妹なのだ。
「いや、なんか疲れたみたいで、いつのまにか寝ちゃったんだ。心配かけたね」
嘘だ。なんか疲れたんじゃない。大声を出して疲れたのだ。しかし妹に向かって、親友に彼女ができて嫉妬した。自己嫌悪もあって帰り道はずっと叫んでいてそれで疲れたなんて言えるものか。
そしてハッとする。おれ、夕飯作ってない。うちは両親が仕事の関係でほとんど家にいないので、家事は基本的に2人で分担している。帰りの早いおれが夕飯を作る係になっているというのに、すっかり寝過ごしてしまった。
「ごめん、すぐになんか作るから」
慌てて部屋着に着替えようとするおれを見て、いいよいいよ、とミヅキは微笑んで見せた。
「たまには私が作るよ、いつもお兄ちゃんに作ってもらってるし。先にお風呂入ってきちゃったら?」
って、お風呂掃除はセルフだけど、とミヅキはイタズラっぽく笑う。
なんていい妹なんだろう。夕飯を作らず寝こけていたおれを責めるどころか、気を使って係を代わってくれるなんて。おまけにちょっとした茶目っ気を見せることでおれを元気づけようとしてくれているのか。そんな人の優しさに触れ、おまけにこの妹との日常的なやり取りにどこかホッとしたおれは思わず、
「……ううううう〜」
号泣してしまっていた。
慌てふためき、ますます眉をハの字にした妹に、しゃくりあげながら事情を説明するおれは、たぶんここ数年でダントツにカッコ悪かったことだろう。
◇
「話はわかりました」
ミヅキの作った豚の生姜焼きとサラダをおかずに夕飯を済ませ、食後のお茶を飲みながら、おれたちはテーブルを挟んで向かい合った。
「せっかく秘密を明かしてくれたのに、嫉妬を抑えられなくて嫌味を言ったのはちょっと子供だったね」
「……はい」
おれは「けっきょくおれってどうすればいい?」という自分がされたら1番嫌なタイプの質問を妹にしたのだ。だが、この湧き出てくるような嫉妬心を抑える方法も、次にユウトにあったときにどんな顔でなにを話せばいいのかも、今のおれにはさっぱりわからなかった。
ミヅキが本当の子供をなだめるようにゆっくりとそう言い聞かせてくれたが、その感じが逆に心に刺さる。
「それと、絶対に秘密って言われたことをすでに私にバラしているのもいただけませんなぁ」
「面目ない……」
言われてみたら確かにそうだ。親友との約束をものの数時間で破ってしまった。もともとあった負の感情たちに、新しい罪悪感が追加されたような気分だ。
「まあ私が相手だから問題ないけどさ」
そう言ってお茶を一口飲むと、ミヅキは口元に人差し指を当てながら、視線だけを天井に向けた。おれにどうアドバイスするか考えているようで、首を左右に小さく揺らしている。その動きに合わせて、胸まで伸びているストレートの黒髪がサラサラと揺れて、おれは無意識にその動きを目で追っていた。
よし、決めた、とミヅキは動きを止め、おれの目を覗き込んできた。
「お兄ちゃん、私、お兄ちゃんに秘密にしていることがあるの。絶対にだれにも言わないでくれる?」
え、と声にならない声が出て、そのまま数秒、ポカンとしてしまった。ミヅキの口からどんな叱咤激励が飛んでくるのだろうとしか思っていなかったおれからすれば、このセリフは完全に想定外だ。そもそも、絶対に秘密にしてほしいという約束を、1日に2回、しかも別の人からされるというのは、たぶん人生初の経験だった。
「そりゃまあ、ミヅキが秘密にしてっていうならもちろんそうするけど」
「ほんとかな〜。お兄ちゃん、ユウトくんとの約束、さっそく破ってるしな〜」
「それを言われるともうなにも言えない……」
「やっぱりさ、こういうセリフって軽々しく言えるものじゃないんだよ」
見ると、ミヅキはいつにも増して真剣な顔をしていた。眉間に薄くシワがよるほどにキュッと目を細め、おれを直視している。なぜだか責められているような気分になって、おれは目を逸らしたかった。
「私、もし自分に彼氏ができたとしても絶対すぐに人に言ったりできないと思う」
「……どうして?」
「だれもが一緒になって喜んでくれるとは限らないから」
グッと言葉に詰まる。おれはまさしく、一緒に喜んであげなかった側の人間だ。
「別にお兄ちゃんを責めてるわけでも、喜んでくれない人が悪いとも言ってないよ。その時の相手の精神状態にもよると思うしね。彼氏にフラれたばっかりの人にわざわざ報告したらそりゃいい気分はしないだろうし、彼女ができないことで悩んでる人に報告したら、見方によっては嫌味になるのかもしれないし。
私は女子だから余計にそう思うんだろうけれど、このタイミングって本当に微妙なところなんだよ。すぐに報告すれば『あいつ浮かれてるよね』なんて後ろ指刺されるかもしれないし、かと言って報告が遅れたら『秘密にするとか酷くない?』なんて言われて機嫌を損ねるかもしれないし。
もっと言えば、絶対に秘密って言って話したところで、数日後には知らない人の方が少ないくらいまで広まってることなんて普通にあるもんね。『私から聞いたって言わないでね』っていうお決まりのセリフが追加されて、どんどん周知されていくもんなんだよ。そのせいで、本当は時期を見て伝えようと思っていた相手に、人づてに伝わちゃったりして。それでその人となんか気まずくなるとか、ありがちじゃない」
なにも言えなかったのは、容易に想像がついたから、だけじゃない。身に覚えがあったからだ。さかのぼれば小学生のとき。一緒に下校していた友人となんとなく恋愛トークをしているうちに、うっかり自分の好きな女の子の名前を言ってしまったことがある。その友人は「誰にも言わないから安心しろ」なんて言っていたが、数日後、その好きだった女の子から直接言われた。
「わたし、ヒロちゃんのことべつにすきじゃないの。ごめんね」
もう名前も忘れてしまったが、あの当時の友人は今どうしているのだろうか。今でこそ笑い話だが、その当時はそいつのことをとことん恨んだし、それから数日は、みんなが自分のことをダサいやつだと噂しているような気がして、学校に行くのが本当に嫌だった。どうして話してしまったのだろうと何度思ったことか。でもおれはこの時、好きな人をバラしてしまったことを後悔したのではない。好きな人を、あいつにバラしてしまったことを後悔していたのだ。正直、たいして仲が良かったわけでもない。ただ偶然、帰り道と帰る時間が同じになって、偶然そういう話をする流れになっただけだ。
そりゃあ、小学生の「ぼくねー、好きな人が3人いてー」なんて言っていた頃の恋愛と、付き合いだしたらそのまま結婚する可能性だってある高校生の恋愛じゃ、重みも違うだろうけれど。じゃあ今、改めて誰になら好きな人の名前を明かせるかと聞かれたら。やはりおれはユウトの名前をあげるだろう。
そう話すと、ミヅキは言った。
「そんな感じの考えで、ユウトくんもお兄ちゃんに話してくれたんだよ。一緒に喜んでくれて、本当に秘密を守ってくれそうなのは誰かって考えた上でさ」
恋愛に関する秘密は、他の秘密とはタイプが違う。特に、おれのように恋愛下手の人間からしたらなおさらだ。ユウトがおれに彼女ができたと話してきた時の態度を思い出す。ひとしきり話したら、早めに会話を切り上げようとしていた。あれは、今思えば恥ずかしかったからではないか。それほど勇気を出しておれに話してくれたんじゃないのか。おれなら一緒に喜んでくれると思って。
「くそっ……」
自転車に乗りながら叫んでいた時と同じ言葉が、また口をついた。同じ言葉だけど、その意味合いとか重みとかは全然違っていることは自分でもわかる。身体の深い深いところから、ゆっくりとガスが抜けてくるように出てきた。そんな感じだった。
「おれ、そういえば彼女の名前すら聞いてない。どんな人なのかとか、クラスも学年も部活も、なにも聞いてない」
「なるほど、だからか」
おれの言葉に、ミヅキが納得したように呟いた。
「なるほどって?」
「え? いやいや、その、ただお兄ちゃんの話を聞いててその手の情報がぜんぜん出てこないなーなんて思ってたから。例えば相手が自分の好きな人だったからとか、思いっきり美人だったから嫉妬したとか、そういうわけじゃないんだね」
なぜか言葉を探るように話すミヅキの言葉を聞いて、おれはまた自分に失望しそうになる。
「おれの嫉妬の理由って、ほんとにくだらないのな。彼女ができた=勝ち組みたいな考えでいるからこんなことになるんだ」
「そんなに自分を責めなくたっていいじゃない」
そうは言われても、一度このサイクルに入るとなかなか抜け出せない。次から次へと自分の悪いところが明るみになっていくような気がして、胸のど真ん中に大穴が空いて身体の中が空っぽになってしまったような気分だ。おまけにその穴に冷水が注がれて、体温を内側からどんどん奪われてしまうような、嫌な、嫌な感覚だった。
ミヅキが席をたち、お茶のおかわりの準備をしながら言った。
「そもそもお兄ちゃんは、なんでそんなに嫉妬してるの?」
「え?」
「なんか、お兄ちゃんがそんなに嫉妬してることが意外なんだよね。興味ないのかと思ってたから。アニメとか漫画とか大好きだし、友達ともたまに遊びに行ってるし、それで充実してるのかと思ってた」
2人のコップにそれぞれお茶を注ぐと、ミヅキはまたおれの向かいに腰を下ろす。
「おまけに相手の人がどんな人なのかもわからないんでしょ? どうしてそこまで嫌な態度をとっちゃったのかはちょっと不思議かな」
「そうだなあ。これは話すと長くなる上にだいぶ恥ずかしい話になりそうなんだが」
「バカにしたりとかしないよ」
「じゃあ言うけど……絶対に秘密にしてくれよ?」
「今日はその言葉、よく聞く日だなあ」ミヅキは口元に笑みを浮かべた。
「友達というか、身近な人に彼女ができると、なんだか自分が劣っている人間だってまざまざと見せつけられているような気がするんだよな。他にも、何かで賞をもらったとか、テストでいい点を取ったとか、そういう話を聞いても似たような気持ちになるかな」
「それは、その人がいい結果を残してて悔しいってこと?」
「そうじゃないんだ。そうじゃなくて、ああ、おれはまたなにもしなかったって思っちゃうんだ。何かの作品で賞が欲しいとか、テストでいい点を取ってクラスで上位の成績になりたいとか、彼女を作って一緒に遊びたいとか、今までそう思った瞬間って何回もあったはずなんだ。でも今のおれは、なに一つできてない。成績だってずっと現状維持だし、もちろん彼女もいない。でも周りには、おれがただの夢物語として終わらせて、妄想するだけで楽しんでたことを、現実にすることができる人がたくさんいるんだよ。今回のユウトがいい例だ。去年、モテないもの同士仲良くやろうぜなんて冗談まじりに話して、それっきりおれはほんとになにもしなかった。彼女ができたらこんなことして遊びたいなーなんて妄想したことは何度もあったけど、それだけだ。おれがそんなことしてるうちに、ユウトはちゃんと努力をしてたんだろうな、だからここで差がついた。それで思うんだ、またなにもしなかったんだなって。けっきょくおれは、中身はなにも変わらずなにも経験せず、ただ年だけ取っちゃったんだなってことを痛感させられるんだ。それと同時に、成功してる自分を妄想するだけして、それで満足していた自分がものすごく滑稽に思えて恥ずかしくて仕方ない。つまり、嫉妬ももちろんあるけど、それよりも」
「自分のことをどんどん嫌いになっていくわけね」
「……そういうこと」
おれは深く頷いた。ミヅキはなにも言わず、じっとおれのことを見ている。沈黙がなんとなく気まずくて、わざと少し時間をかけてお茶を飲み干した。
先に口を開いたのはミヅキだった。
「私の予想なんだけど、たぶんユウトくんはなんとも思ってないと思うよ」
「そうかな」
「たぶんね、まあこんなもんだろって思ってるんじゃないかとは思う。だって彼氏とか彼女ができたら嫉妬されるかも、なんてことくらいなんとなく想像つくじゃん。お兄ちゃんが気にしてるだけで、ユウトくんが明日からも普通に話しかけてくる可能性は大いにあるね」
言われてみれば、おれはユウトと喧嘩をしたような気になっていたが、たしかにそうではない。ユウトは事実を話し、おれがそれに嫉妬し、嫌味を言った。それだけだ。別れ際には、また明日とユウトから言ってきた。ユウトは少なくとも、おれに対して怒ってはいない。
「そうか。おれが1人でモヤモヤしているだけか」
「たぶんね」
「じゃあ明日、おれがいつも通り話しかけることさえできれば、なんのわだかまりも残らないのか」
「そうなるね」
ふっと肩の力が抜けた。嫉妬をどうコントロールするかにも悩んではいたが、なによりこれからユウトとどう接しようかということもかなり悩んでいた。おれが何事もなかったかのようにすればいいならまだ楽だ。さも嫉妬なんてしていませんって態度で振る舞えばいいのだから。
「あとはお兄ちゃんが、ユウトくんから『こんなもんだろ』って思われる対象のままでい続けられればって感じだよね」
「え」
ミヅキの大きな眼が、おれを見ている。
「彼女ができたら嫉妬の対象になる。だから誰かに嫉妬されても、こんなもんだろで済ませることができる。でもそれって、こんなもんだろで済ませてもいい相手だからこそのことだと思わない? そこまで仲良くない人に後ろ指刺されようが陰口言われようが気にしないでいられるけど、親友だと思ってた人にそんなことされたら誰だってショックだよ。でもいつまでもショック受けてたって仕方ないし、現実として受け止めて前進するためには、『親友だと思ってたけど、この人もこんなもんなんだな』って思うのが手っ取り早いでしょ」
「おれもそう思われるってことか?」
「可能性はあるんじゃないかって話。もしユウトくんがそういう心の整理の付け方をしても文句は言えないと思うし。お兄ちゃんが何事もなかったかのように接して、向こうもそうしてくれて、でもふとした時に、ユウトくんは自分のこと、前と同じように親友って思ってくれてるのかな、なんて気になる瞬間は出てくるかもしれないよねっては思うかな」
頭がクラクラした。自分が親友を事実上失うかもしれない瀬戸際にいるだなんて考えもしなかった。でも、ちょっと待ってくれとも思う。おれってそんなに悪いことをしたのか? たしかに嫌な態度はとったかもしれないが、声を荒げた訳でも罵った訳でもない。
「なんか、大袈裟な話になってないか。そんな親友じゃなくなるほどのことなのかな、これ」
するとミヅキは、わざとらしく鼻の前に人差し指を当てて言った。
「絶対に秘密だよって言われたんでしょ。人に秘密を打ち明ける時の相手の覚悟、舐めちゃダメだよ」
◇
自室のベッドに背中から倒れ込んだおれは、天井に目掛けて大きなため息をついた。
あの後、ミヅキになんて言葉を返せばいいかわからなくなってしまい、なんとなく解散になった。洗い物はミヅキがやると言ってくれたので、今日のところは甘えることにした。部屋で1人になりたかった。
嫉妬をどうすればいいかも、明日からユウトとどう接すればいいかもけっきょく明確化されなかったけれど、ミヅキと話したのは正解だったと思う。危うく、ユウトと表面上だけの仲になってしまうところだったかもしれないと気づけたからだ。
なんとなくだが、ユウトに対して嫉妬しないようにすることと、ユウトと今後どう接するかは、イコールの関係にあるような気がする。
ユウトに嫉妬しない自分になれれば、ユウトとは文字通り、今までとなにも変わらず過ごすことができるのだから。
では、どうするか。
なんとなく部屋の中を見渡してみる。飽きるほどに見慣れた景色だ。ろくに使っていない勉強机、好きなアニメのポスター、セリフを覚えるほど読み込んだ漫画たち。
カーテンレールには、中学の頃の部活のチームジャージがハンガーにかかっている。なんとなく押し入れの中にしまいこむのが申し訳ないような気がして、ずっとそこにひっかけっぱなしだ。自分でも忘れてしまいそうだが、おれもユウトも中学の頃は陸上部だった。2人とも短距離走が得意で、県大会でもそれなりの成績を収めた。今じゃそろって帰宅部になってしまったが、あの頃は本当に必死だったし、楽しかった。
だがそれだけだ。今のおれの身近に残ったものは、本当に少しの思い出だけ。
「でも……それを武器にするしかないんだよな」
見慣れた風景と思い出。こんな吹けば飛ぶような武器でも、それを使って今を乗り越えるしかないんだ。
そんなことをぼんやり考えているうちに、少しずつ意識が遠のいていく。どうやら疲れはまだしつこく残っているようで、じんわりと睡魔が襲ってきた。
眠気でふわふわとした思考の中で、そういえば、と思い出す。
リビングを出る直前、ふと気になってミヅキに質問をしてみたのだ。
「そういえばさっき、お兄ちゃんに秘密にしていることがあるって言ってたけど、あれって本当にあるのか? それとも、話しの導入として言っただけ?」
するとミヅキは、すました顔で言ったのだ。
「導入として言った言葉ではあったけど、秘密があるのはほんとだよ」と。
おれは、そうかとだけ言って、リビングを後にした。今のおれには、深く聞く資格はないような気がした。
◇
次の日の昼休み。おれは校庭の隅っこで、ユウトと対峙していた。5月の日差しは思った以上に強くて、ブレザーを着たままだと汗をかきそうなくらいだ。同じくブレザーを着たままやってきたユウトは、気まずそうにおれと目を合わせては逸らしてを繰り返している。
朝一番に、おれからユウトに声をかけたのだ。話したいことがあるから、昼休みに校庭で会えないか、と。
たぶんユウトからしても、話の内容は大方の予想はついているだろうと思う。だから前置きなんていらない。おれはその場で、自分の頭が膝にくっつくほどに頭を下げて、叫ぶように言った。
「昨日は、ごめん! おれ、無神経だった!」
言ってから、大声で言って良かったと思う。今朝からずっと頭の中で練習していたセリフだったのに、実際に口に出すとなると、声が震えそうだった。こんなに真っ正面から人に謝るのなんて、いつ以来だろう。
10秒以上待っても、ユウトからの反応はない。ガバッと一気に頭を上げてユウトを見ると、ユウトは目を見開いて困惑していた。
「おれ、そんな謝られるようなことされたっけ?」
とぼけているわけではないのだろう。ミヅキの言葉を借りるなら、『こんなもんだろ』ですませようとしていたからこそ、そこまでの大事として捉えていなかったのだ。
「ユウトは気にしてないかもしれないけれど、おれが嫌なんだ。昨日はせっかく秘密を話してくれたのに、嫌な雰囲気出して本当にごめん」
「ああ、そんなこと」
ユウトは文字通り胸を撫で下ろして、言った。
「気にしてないよ。おれこそ、変にテンションあがって、舞い上がっちゃって。こっちこそごめん」
「ユウトが謝る必要ないだろ」
「じゃあヒロも謝る必要ないよ。おれ本当に気にしてないもん」
ごめん、と、おれはもう一度言った。さっきとは打って変わって、つぶやくような声になってしまったのが情けない。ユウトは気にしていないというが、おれが『嫌な雰囲気を出した』ということに関しては否定しない。ユウトにだって、やはり思うところがあったんだ。おれは腹を括った。
「おれ、ユウトに嫉妬した。彼女ができたって聞いてめちゃくちゃ羨ましくて、すごく悔しくなって、素直におめでとうって言えなかった。秘密にしたいはずのことを打ち明けてくれたのに、ひどい態度だったと思う。けっきょく謝って自分がスッキリしたいだけだろって言われたらそれまでなんだけど……とにかく、反省させてほしい」
「そうか」
そう言うと、ユウトは軽く俯いて、苦笑いを浮かべた。そして覚悟を決めたように顔を上げ、言った。
「ヒロがそこまで考えを固めてくれてるなら、おれも誤魔化しちゃダメだよな」
おれとしっかり目を合わせてくる。
「たしかに、本当は一緒に喜んでほしかった。ヒロだったらきっとって思ってた。だから昨日は、まあちょっと、ショックだった」
「うん」おれは顎を引くように頷いた。ユウトの言葉の続きを、静かに待った。
「彼女ができたのは嬉しいし、ヒロにはすぐに知って欲しかったって考えがあったのだって事実だし。おれだって別になんの努力もしないで彼女ができたわけではないというか、おれなりに頑張ったというか、嫌な言い方になるかもしれないけれど、嫉妬なんかされても、正直言って困る」
「……そうだよな。当たり前だ」
ここまできても、嫌な言い方になるかもしれないという前置きをつけてくれたユウトの優しさが胸に刺さった。完全におれのせいにしたっていい状況のはずなのに。
「ただとにかく、おれはこんなことでヒロと気まずくなったりするのが1番嫌だ。変わらず話したいし、遊びに出かけたいし、なんならおれの彼女も含めて3人で遊んだりもしたい。絶対楽しいはずだから」
「せっかくの2人の時間を邪魔するのは嫌だけど、ユウトの彼女とだったらたしかにおれも気が合うかもな」
そう言うと、ユウトは吹き出すように笑ってから言った。「大丈夫、保証する」
ユウトが笑ってくれたことで気が緩んだのか、なにもおかしいことなんてないのにおれまで笑いが込み上げてきた。そこからは2人で、ただひとしきり笑い合った。校庭の隅で、男子生徒が爆笑し続ける姿というのは、さぞかし奇妙に映るだろうが、そんなこと全く気にならなかった。2人とも安心したのだ。これからもまたこの雰囲気で、一緒にいられそうだ。
ふと校庭に高々と立っている時を見ると昼休みは残り10分を切っていた。もうあまり話している時間もない。
「ごめんユウト、時間もらいすぎた」
「いいよ、話せてよかった。教室戻るか」
「いや、最後にもう一個言っておきたいことがあるんだ」
おれは呼吸を整えて、真面目な顔を作った。ユウトは不思議そうに首を傾げている。
「おれさ、次の定期試験、めちゃくちゃいい点数取るから」
「え?」
「というか、定期試験に限らず、受験勉強も。もう時間もあんまりないけど、今からでも頑張る。ユウトがビビるくらいいい点数とって見せる」
「……なんで?」ユウトはきょとんとしている
「おれ、きっと自分に自信がないんだ。おれには何にもないってすぐに思っちゃうんだ。そのせいで今回も、すごい嫉妬した。だから、おれだって何かを成し遂げられるんだぞっていう自分なりのトロフィーを、自分にプレゼントしてやらないとって思ってさ。身近なところで、まずは勉強をがんばってみる。おれだってやればできるんだぞってことを、自分自身のためにも証明する」
これが昨日、ぼんやりとする頭の中で出した、おれなりの答えだった。自分に自信を持てるように、身近なものでいいから小さな努力をしてみようと思ったのだ。なにもない自分が嫌いなら、何かがある自分になればいい。ユウトは頑張って彼女を作った。ならおれも、頑張って何かを得ようではないか。そうなって初めて、おれは自分に満足できる気がする。ユウトに対して嫉妬することもなくなって、ユウトと今後どう接すればいいかなんてわざわざ考えるまでもなく、自然体でいられるのではないかと思った。
けっきょく「何かを頑張る」って、なんの解決にもなってないだろ、なんて誰かに言われるかもしれないけれど、別にいい。誰かに納得して欲しいんじゃない。おれ自身が満足できるなら、今はそれで十分なのだ。
最初はポカンとした顔でおれの話を聞いていたユウトだったが、徐々に口元に笑みが宿った。それは、おれの話す意図を理解してくれた時の、今までに何回も見てきた顔だった。
「ヒロはやるって言い出したら本当にやるからな。だったらおれも負けてらんねえ。勝負だな」
「いいね、その方がおれもやりがいがあるよ、勝負だな」
勝負という言葉を口にして、ふと思いついた。
「ユウト、久しぶりに走ってみないか。50メートル走、どっちが速いか」
「まじか、おれたち制服だぜ?」
そう言いつつも、ユウトが嫌がってないのはわかる。むしろ乗り気だ。陸上部の面々には申し訳ないと思いつつ、校庭にある50メートル走専用レーンのスタート位置に並んで立つ。
「もしおれが勝ったら、彼女の名前教えてくれよ」屈伸しながらおれは言った。
「別に勝たなくても教えるし、どうせすぐにわかるって」アキレス腱を伸ばしながら、ユウトは言う。
「いーや、それじゃおれの気がすまない。勝つまでは教えてもらわない。今決めた」
「なんか負けること前提で話進んでないか」
笑い合いながら、自然とクラウチングスタートの姿勢をお互いにとった。もうしばらく走ってないというのに、身体が勝手に動くような感じがする。中学の頃も、ずっとこうやって一緒にいた。あの頃とは雰囲気は全然違うけれど、またこうしてスタート地点に並んでいることが不思議だった。そういえば、ついさっきまで少し気まずさを抱えていたのだった。おれたち2人の親友という関係性も、今日からまた再スタートになるような、そんな気がした。
「位置について、よーい、スタート!」
2人の声が重なって、校庭中に大きく響いた。
◇
昼休みに友達と立ち話をしていると、よーい、スタートという声が、グラウンド側の窓から微かに聞こえてきた。窓に目をやると、2人の見慣れた男子生徒が全力で走っていた。
1人はお兄ちゃんで、もう1人は、
「ユウトくんだ」
ぼそっとそう口にしてしまった。その瞬間、友達が露骨に目を輝かせる。
「ユウトくんって、あのミヅキの彼氏の?」
「ちょっと、声が大きいって」
声をひそめて注意すると、友達も慌てて自分の口を両手で塞いだ。だが、目の輝きは全く失われておらず、どころか頬まで赤くして窓の外に必死で目をやっていた。
「遠くて見づらいなー、どっちが彼氏なの?」
ボソボソと小声で聞いてくる。その興味津々な態度に、呆れながらもどこかくすぐったいような気持ちが湧き起こった。
つい一昨日、私はお兄ちゃんの親友であるユウトくんから告白された。
中学の頃から何度となくうちに遊びにきていたのもあってそれなりに仲は良かったし、学校で会った時には二言三言だが会話をすることもしょっちゅうだった。兄とはまた違う落ち着いた雰囲気のある人で、かっこいいなとは思っていたが、まさか告白されるなんて夢にも思っていなかった。
ありがたく告白を受け入れさせてもらい、「お兄ちゃんにも報告しないとね」と私が言うと「おれから話すよ、きっとヒロも喜んでくれる」と笑顔で言っていた。
だから、家に帰って兄からあの話を聞かされた時は本当に驚いた。まさか兄が、喜ぶどころか泣くほど落ち込むだなんて考えもしなかった。
ユウトくんの気持ちが無碍にされたことは悔しいし、兄の気持ちもわからないでもないし、話の内容的に「その彼女は私です」と言うわけにもいかず、自分で言うのもなんだが昨日はかなり頭を回転させながら話していたと思う。
後になって思い出すとちょっと危うい場面もあったが、まあ兄が気づかなかったのだからとりあえずはうまく隠せたと言っていいだろう。こうなった以上この話は、私じゃなくてユウトくんの口から伝わるべきことだろうと思った。
「ねえねえ、右の人か左の人かだけでも教えてよ、どっちが愛しのユウトくんなの?」
友達は背伸びをしてまで窓の外に目を凝らしている。
「そのうち紹介するよ。そんなに必死に見ようとしなくても」
「えー、だってミヅキのことをこれから幸せにしてくれる相手なわけでしょ? だったら私だってどんな人なのかくらい知っておきたいじゃん」
そう言って再び背伸びをし始めた友人の後ろ姿を見て、なんだか温かい気持ちになった。中学から部活も一緒で長い付き合いとなった彼女には、告白されたその日に彼氏ができたと報告した。彼女は大いに羨ましがり、私をからかい、そして喜んでくれた。
彼女には伝えたいと思った私の直感はやはり間違っていなかったのだ。お兄ちゃんにも言ったが、自分の秘密を話すタイミングって本当に難しい。信用しているから早めに教えるとか、そこまで仲良くないから後回しにするとかそんな単純な話じゃなくて。
それに秘密にしたいことなんて、人生の中でもそうそうない。だったら、少しぐらいドラマティックに演出して、その秘密を自分なりに楽しんだっていいんじゃない? なんて思ったりして。中にはそんなこと考える間もなく伝えたくなっちゃう時もあるけれど、それもまた、ドラマの一部ってことで。
「じゃあわかった、教えてあげるけど、まだみんなには絶対に秘密だよ?」
私は「今の競争で負けちゃったほうがユウトくん」と友達の耳元で囁いた。
友達は、小声でキャーキャー言いながら2人の姿を見ている。
「え!」という大きな声が、窓から聞こえてきたような気がした。多分今のは、兄の声だ。
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