ぬらりひょんの花宴

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 桜は好きだ。  けれど花見は好きじゃない。  春の公園は寒いし、シート越しにお尻に突き刺さる小石は地味に痛い。  それに、藤乃にはこの花宴をどうしても楽しめない理由があった。  敷地内は大勢の花見客で埋め尽くされている。  腰を下ろした藤乃は、周囲を見渡してしまわないように気を付けた。人ごみに紛れた「彼ら」の姿が、不意に見えてしまっては困るからだ。  花と酒の匂いに惹かれて宴に姿を現すのが人間だけではないことを、藤乃は良く知っていた。  広い公園の一画だった。  舞い散る花びらの儚さを、人々の声が覆いつくしていく喧騒の中、藤乃はオレンジジュースが入った紙コップにチビチビと口を付けていた。  ハルタくんが藤乃に飲み物を渡してくれたのは、つい先ほどのことだ。参加者も揃い乾杯の音頭が始まろうかという時になっても、藤乃の手元にはコップすらなかった。どうしていいかもわからず、手ぶらでオロオロとしていた藤乃の手元に、サッと飲み物を差し出してくれたのがハルタくんだった。 「あ、ありがとう」とお礼を言った藤乃に、ハルタくんは力無く微笑んだ。  入社から数年がたつ。以前と比べると彼の身体はだいぶ薄くなったように感じた。心なしか、頬もこけた印象がある。藤乃は俯いたまま、上目を使ってハルタくんの様子を盗み見た。彼は今、ビール瓶を片手に持ち、社長の近くでお酌をしている。同期の中でもかなり早い段階で店舗の責任者に抜擢されたハルタくんは、剛腕で知られる社長のお気に入りだと聞く。けれど、それはあまり良いことではないのだと、誰しもが口を揃えて言っていた。  この花見会も、社長の思い付きで、突然に開催が決められたのだという。  感染症の影響で長らく宴会が出来ていなかったため。頑張ってくれている正社員を労うため。もっともらしい理由はさんざんと述べられていたが、この唐突な思い付きによって負担を強いられたのは、スケジュールを調整しなくてはならなくなった社員たちの方だ。  会社は、台湾の家庭料理をイメージした飲食店の経営を主な生業にしている。感染症が流行し人々の外出が制限されていた時期に着々とテイクアウト専門の店舗数を増やした結果、今や都内に十数の店舗を展開していた。今日、ここに集まっている社員はみんな店舗の責任者だ。急激な業務拡大に人員が追い付いていないこともあり、どこも人手不足だと聞く。責任者自らシフトに入らなければ運営も難しい状況の中、前触れもなく「さぁ花見をするぞ」と号令がかかったわけだ。社長を囲む面々が浮かべている愛想笑いの向こうに疲労がしみ込んでいることを、藤乃はひしひしと感じ取っていた。  げっそりとした社員らの中でも、特に疲れ果てた様子を見せているのがハルタくんだった。それもその筈、ハルタくんはこの花見会の準備から場所取りまでの全てを社長から一任されていた。面倒な雑務をぶん投げられた、と言ってもいい。もちろん、自分の店の管理もやりながらだ。ハルタくんは昨日の夜もシフトに入っており、今日はほとんど寝ずにここまで来たのだという。できる事なら少しでも彼の負担を減らしてあげたい藤乃だったが、自分にはそれができないことも十分すぎるほどに理解していた。  諸悪の根源といえる当の社長は、部下たちの疲弊に気づいてもいないのか、上機嫌な様子で、ゲストとおぼしき老齢の男性と酒を飲み交わしている。相手は着物を纏っているし、どこか取引先の社長なのかもしれない。傍らにいたハルタくんの手元からサッとビール瓶を奪い取り、自らのコップに黄金色の液体を注ぐ老人の顔を見た藤乃は、ギョッとして目を見張った。  ぬるり、と伸びた後頭部。  広く禿げ上がった額に、まばらに生えた顎のひげ。  ぬらりひょん、だった。  口の中のオレンジジュースを飲み込み、藤乃は静かに視線を下げる。  いつの間に紛れ込んでいたのだろう。注意していたのに、気が付かなった。けれど、それもしょうがない。「ぬらりひょん」とは、そういう特性を持った存在だからだ。  家の者が忙しくしている時間にどこからともなく現れ、まるで自分の居場所であるかのように振る舞う妖怪。家の者がその姿を目撃したとしても、何故だか彼を「ここの主人である」と認識してしまうため、追い出されることもない。  今はこの花見の場が、ぬらりひょんの力の支配下にあるのだろう。見知らぬ老人がぐびぐびと酒を飲んでいるのにも関わらず、誰もそれを咎める様子はない。むしろ次にお酌をしようと、ビール瓶を携えて行列を作っているぐらいだ。  藤乃には、普通の人間には感知できない存在の姿形を、はっきりと捉えることができた。  普段であれば、薄暗い日陰の奥や夜の闇に潜んでいる人外の存在。人には伝承の中だけで語られている、精霊、妖怪、化生の類。  いつもは割と大人しくしている彼らだが、こと、お花見となれば話は別だった。  舞い散る花びらと人々の酩酊をめくらましにして、彼らはそっと花宴に忍び寄る。  昔からその存在には慣れ親しんでいた藤乃であったが、彼らの姿が人の目に触れて、辺りがパニックになるような事態は大いに恐れていた。そうなった場合のことを考えるだけで、ハラハラしてしまうのだ。花見の席で妖怪たちの姿を見かけると、そればかりが気になってしまって、どうにも楽しもうという気分にはなれなかった。
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