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「あ、ここ、座ってもいいかな?」
見上げると、そこにはハルタくんの姿があった。
藤乃は「は、はいっ」と上ずった声で返事をして、身体を少し横にずらした。隣にできたスペースに、ハルタくんが腰かける。その時、彼の脚がトンッと藤乃の肩に触れた。「あっ、ごめん」と手を合わせたハルタくんに、藤乃は「い、いえっ」と、また上ずった声を発してしまった。藤乃がこうして彼の隣に座るのは、随分と久しぶりの事だった。
ハルタくんは自分で紙コップに緑茶を注ぎ、それを一気に飲み干して、二杯目を注ぎ足していた。喉が渇いていたのだろう。疲れた様子の彼に、藤乃は勇気を振り絞って話しかけた。
「あ、あの……社長の方は大丈夫、なの?」
藤乃がそう尋ねると、ハルタくんはこちらを向いて、また微笑んだ。いつもこうして、無意識に笑顔を作ってしまう人だった。
「会長がね、せっかくのお花見だから社員のみんなと一緒に楽しんでくれって。正直助かったよ。……社長につかまっちゃうと、なかなか離れられないから」
この会社に、会長なる人物は存在しない。おそらく、それはぬらりひょんのことだろう。その場にいる人間から、主人である、と認識されるぬらりひょんは、ハルタくんら社員の目には、社長よりも権力がある会長であるように見えている。いつもならお気に入りの社員を傍らに置いて離さない社長がハルタくんを自由にさせているのは、会長がそうおっしゃったから、ということだ。
「大変だね……。お仕事、だいぶ休めてないって聞いたけど、体は大丈夫?」
「……まぁ、休みが取れないのはみんなも一緒だし、なんとかはなっているよ。心配してくれてありがとう。あ、えぇっと……」
ハルタくんは考え込む様子を見せた。藤乃の名前を思い出せないのだ。藤乃にとって名前を忘れられてしまうのは割といつもの事であったが、やっぱり少し寂しかった。落胆する気持ちを隠して改めて名乗り、小さく乾杯をする。
「確か、同期だったよね。本当にごめん。どうして名前、忘れていたんだろう」
「い、いいの。私、影薄いし。気にしないで、ね」
「ありがとう、藤乃さん。……同期もさ、随分と数が減っちゃったよね。入社した頃は楽しかったなぁ。みんなで新メニュー考えたり、PR作戦練ったりして」
「……そうだね」
ハルタくんが懐かしそうに微笑む。けれどその笑みは、どことなく寂しい。
「……正直ね、これで本当にいいのかなって思う時があるよ。売り上げは好調だけど、社長は原価を切り詰めて安い食材を使う方向に舵を切っているし、味が落ちたんじゃないかってクレームを言われることも増えたんだ。ロクに教育も出来ていないアルバイトさんにキッチンを預けている店もあるみたい。かといってフォローに入る社員の体力は限界、みたいな状況だし……辞めていったみんなはこういう未来を予見していたのかなぁ」
その力無い微笑には、自嘲する雰囲気すらあった。
見た目からして優しい雰囲気があるハルタくんには、お人好し過ぎる面がある。あーしろ、こーしろという誰かの指示を、全部一人で抱え込んでしまうのだ。オーバーワーク気味の仕事量を、なんとか遂行できてしまうところがまた問題で、ここの社長のように「仕事は部下に振ってこそ!」と考えている相手とは抜群に相性が悪かった。あちらからしてみれば都合の良い手足。妙に気に入られてしまい、次々と業務を押し付けられることになる。
近頃は特にその傾向が顕著で、ハルタくんの仕事量は、明らかに彼の許容範囲を超えていた。藤乃は、どうにかしてハルタくんの助けになりたかった。けれど、その為にどうすればよいのかが分からない。
「最近、岩手のご実家には帰れてるの?」
「いや、近頃は全然……。あれ、僕、地元の話とかしたことあったっけ?」
「うん、前に。私も岩手の出だから、覚えていたんだ」
「そうだったんだ! うわぁ、なんか嬉しいなぁ」
ハルタくんは表情を綻ばせる。子供の頃の面影が残る笑顔だ。
「そういえば藤乃さんって、なんか僕の地元の友達に似てる。小さい頃の」
「えっ……そ、そう?」
ハルタくんがジッと藤乃の顔を見つめる。
藤乃はなんだか急に恥ずかしくなって、目をそらした。
「うん、すごく似てる。おかっぱ髪の女の子でさ、昔よく遊んだんだ。彼女、桜餅が大好きだった。実家の奥のお座敷で一緒に食べて……」
その時だった。
和やかだった酒宴の席に、突如として怒声が響き渡った。
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