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           1  芸術劇場の方から歩いて来るダークグレーのダウンのハーフコートを着た男にぼくは、思わず足を止めた。長身、広い肩幅、端正な顔立ち、タイプだ。  さらに近づいた時、ぼくの心は、凍りついた。それが、誰であるか分かったからである。間違いない。数メートルに迫った時、視線が合った。ぼくは、咄嗟に右手を肩の辺にあげ、ピッっと右に動かした。男は、黙ってすれ違って行った。  エッ、という声が聞こえた。  通り過ぎた男が、戻って来た。ぼくを見つめている。 「ひょってして」 と、言ってぼくを見つめる相手に、ぼくは、ニッと笑って見せる。 「克明か?」 「久しぶりぃ。だけど、よく分かったじゃない?」 「いや、右手をあげて横に流す動作と、目だよ。今の目どこかでと思った瞬間、克明に結び付いた。それにしても」    祐一の視線が、ばっちりメイクに女の子ファッションのぼくの頭からつま先まで流れ落ちた。 「そんなに見ないでよ、恥ずかしい。芸術劇場に行ってたの?」 「ちょっとな」 「この前、テレビで観た。トライアウト」  ぼくは、言った。    プロ野球球団から自由契約を申し渡されたプロ野球選手達が、どこかの球団に拾われようと、自己アピールする場がトライアウトだ。ぼくは、偶然、その様子を家のテレビで観たのだ。KRBテレビの三十分番組だった。これまでも、この種の番組を観たことがある。  契約する球団から「もう、お前はいらないよ」と通告されても、尚もプロ野球でプレイしたい男たちの情熱、応援する家族、トライアウトはテレビ局にとって、それが、二番煎じだろうがなかろうが、おいしい食材なのだろう。自由契約になった選手がどこかの球団に拾われる確率は極めて低いのが、料理を一層おいしくしている。  千葉レイダーズの佐村祐一は、入団七年目にして自由契約になった。  ピッチャーである祐一は、打者三人と対決した。  一人目は、右打者、ぼくが、聞いたこともない選手で三遊間を破られるヒット、二人目は、左打者、ピンチヒッターで何度か聞いた名前だったが、セカンドゴロに打ち取った。三人目は、右打者、かつて、太平洋リリーズで中軸を打っていた選手の田之上、ぼくは、祐一が三振をとってくれることを祈った。  三十七歳になったと言っても有名選手である。  三振させることが出来たら、どこかのチームが契約してくれるかも知れないと思ったのだ。セットポジションから投げるテレビ画面の祐一に向かって、ぼくの口から「スライダー、スライダー」という言葉が出ていた。スライダーは、祐一の得意な変化球のはずだった。  祐一は、カウント、ツースリーから何球かファールで粘られた後、きれいに、ライト方向に流し打ちされた。スライダーを打たれたのだった。  テレビの画面で、ナレーターが、この日の祐一の最速は、百三十九キロだった、と言った。  ぼくは、だめだろうと思った。トライアウト受験者、六十五名、声がかかった選手は、たったの三人、佐村祐一は、どこの球団からも声がかからなかった。           
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