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「それにしても、暫くじゃないか」
テーブルを挟んでソファに腰かける一は、花瓶の花を指先でつついて言った。
「どうしたんだい、急に? 今日は、お盆でも命日でも、お誕生日でもないよ?」
「……誕生日で、菊なんか選んでくるか」
冗談を言うのもまた相変わらずだ。万吉も漸く調子を取り戻して、そんなツッコミを入れられるようになっていた。
「この春から、谷ヶ崎の診療所に勤めることになったんだ」
と言うと、一は目を丸くした。
「へえ、そうかい! それは良かった! なんせあの頃から、この町はちっとも変わってないからね。お医者さんがいてくれるようになるだけで、大きな進歩だ」
「数年ぶりに帰ってきても、なんにも変わってなくて安心したよ」
「やっぱり、故郷が心配で帰ってきたのかい?」
「そうなら綺麗な話だけどな。行ってた大学の制度でだよ。学費免除にする代わり、卒業後四年間は大学病院に勤めて、その後の六年は僻地の診療所で働かなくちゃいけないんだ」
「ふうん、そうかあ」
一は腕を組んで、深くソファに座っていた。終始、にこにこと万吉を見つめていた。
「万ちゃんももう、二十九かあ」
「……ああ」
返事が遅れた。それを見かねて、一はまた笑って言う。
「気にすんなよ。永久にアラサーを名乗らなくていいってのも、悪くないぜ?」
万吉の脳裏には、墓の前に群がる幽霊たちが浮かんでいた。
「なあ、一……今、何してるんだ?」
「何って、旭くんから聞いただろう? 探偵事務所だよ」
「本当か?」
「ああ、ここは僕の墓、兼探偵事務所」
「ここが、墓……の中?」
本棚に囲まれた一室、立派な書斎であろうこの部屋が、墓の中とはとても思えない。
「墓石をずらすと、選ばれし者にしか使うことができない、下へと続く階段が現われるのさ。そこを下っていくと、僕ら幽霊の住む部屋に辿り着くことができる」
「選ばれし者お?」
と、旭が頓狂な声を上げる。
「何言ってんだよ! この間抜けなお医者さんは、キンダイチが運んできたんだろ?」
「こらこら、旭くん……」
万吉がむっとしたのが分かったのか、一は静かに旭を窘めた。
「まあ、帰りによく見てごらんよ。またいつでも遊びに来てくれていいしさ」
「ああ……」
なんと答えればよいか分からず、万吉は吐息を漏らすような返事をする。そこから会話が再開されることはなく、妙な沈黙に気が付いたところで、万吉はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ……」
「じゃあね! 先生! またおどかしてやるから!」
扉の前に立ったとき、「そうだ、万ちゃん」と一の声が飛んだ。
久しぶりの呼ばれ方だった。だから万吉はどきっとして、ドアノブに伸ばしかけていた手を止めてしまった。
「君に伝えておかなきゃいけないことがあったんだ」
「……なんだ」
「階段を上がって外へ出るときは、墓石は下からずらさなくちゃいけないから、結構力がいるんだよ。気を付けてね。頭ぶつけないように」
「ああ……」
「と、もう一つ」
「なんだよ」
「何か困ってることがあるんだろう?」
また、返事が遅れた。
「……なんで、そんなことを」
「僕の探偵事務所には、困ってない人は来ないからね」
「なになに!? 事件!?」
爛々と目を輝かせた旭が、ぱたぱたと近づいてきて、万吉の顔を覗き込んだ。
ああ、またか。万吉は思った。
どうしてこいつには、何もかも分かってしまうのだろう。
「僕に隠しごとは無用だよ、万ちゃん」
いや、違う。
俺はいつだって、一の言葉に期待していたんだ。
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