移住・辰吉・送り火

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移住・辰吉・送り火

 4年ぶりにコロナ禍以前の本来の形で行われた祇園祭、そして去年に引き続き正式な形で行われた五山の送り火も終わったにも関わらず、京都は暑い。21時を過ぎるというのに、もわっとしていて湿度が高く不快だ。服が肌にまとわりつくまではいかないけど不快なことには変わりない。 京都の夏は暑い、というのが古今東西老若男女問わず共通の認識であるというのは疑わないだろう。最近では日本人だけでなく、日本に来る外国人にとっても常識になっていると聞いたことがある。京都市内は東・北・西と山に囲まれた、いわゆる盆地である。そのため風が通りにくく夏は暑くなり、寒い空気は下に溜まり逃げ場がないため冬は寒くなる。確かに京都の夏は暑いことは暑い。ただ、東京に長く住んでいた私の感覚では、京都と東京では同じくらい暑い。と思ってしまう。実家のある群馬では、よく最高気温が叩き出されてメディアに話題になる場所から近くの市内に住んでいたし、大学以降住んでいた東京ではヒートアイランド現象のせいか実家と同じように暑かった。というか、避暑地以外は日本全国同じように暑いのではないだろうかとも思ってしまう。大昔から京都は特別に暑いと自他共に認めてきた歴史があるため、それが思い込みとなり「京都の夏は特に暑い」と今でも言われ続けているのではないだろうか。 でも京都人と話すときは「やっぱり京都の暑さは厳しいですね」と自然に口から出てくる私は、社交性が高いのか協調性があるのか嘘つきなのか、はたまた京都人に近づいているのかわからない。  そんなどうでもいいことを考えつつ自宅のマンションから大通脇の小さな通りを少しばかり上がり、京都市内でも有名な長い商店街を縦断すると、住宅街のアパート1階部分にぽつんと明かりが見えてくる。辰吉という名の居酒屋だ。赤い暖簾をくぐり、長刀鉾の粽が飾ってある扉をガラガラと開けて入店する。 「長澤さんこんばんわ」ホールスタッフのミホちゃんから落ち着いた声で迎えられ、カウンターの一席に案内される。冷たいおしぼりを受け取りつつ「生ビールで」と飲み物を注文する。今日は何を食べようかお品書きを見ながら考えていると、カウンターの中から小柄で童顔な店主の山口さんが「こんばんわ」といつもの優しい感じで話しかけてきた。運ばれてきたビールを飲み、お通しであるアジの南蛮漬けを食べつつ、山口さんと少しとりとめのない会話をしていると、座敷のお客さんから鱧のしそ巻きに鯖寿司、鮎と鱚の天ぷらにだし巻き卵の注文が入ったため山口さんは料理へと戻っていく。ホールスタッフの3人も注文を取りに行ったり、料理を運んだり、洗い物をしたりでせかせかと動いている。まだそんなに遅い時間帯ではないため、お客さんも8割がた入っていて心地いい賑やかさを演出している。 辰吉は創業10年ちょっとの人気居酒屋であり、繁華街にあるわけでもないのに早い時間帯は予約を取るのも難しいことがおおい。そのため、私のような近所の一人客は一回転目が終わる21時過ぎくらいから入店してくる。近所ではなくともファンは多く、特に料理関係者が自分の店が終わった後に、入店できるか電話をかけてくる場合もおおい。店名の由来は店主の山口さんが辰年であるためとのこと。店内には皿、箸置き、箸などの食器類からキーホルダーや人形などの小物類、タオルやタペストリーなどの装飾品まで数多くの辰グッズが置いてある。カウンター8席の4人掛けテーブル2卓、奥まったところに6人程座れるテーブル1卓、そして座敷に8人ほどが座ることができるため、満席になると30人ほどになる。 私は京都に移住し始めて3か月ほど経ってから、ある懇意にしている料理屋の店主の方から、「そのあたりに住んでいるなら、辰吉は気に入ると思うよ」と教えてもらった。はじめのうちは早い時間だからか、あるいは京都の店だからか、1人でもなかなか当日予約が取れずに苦労した。1人で居酒屋に行くのに前日とかに予約をするのはなんか違和感があり、なんとか当日予約をとって、店に顔を出していった。そのうちに電話をかけると「今はいっぱいですけど、席が空いたら連絡します」という対応に変化して、行きたいときは時間帯にこだわらなければほぼ行けるようになってきた。その後、ちょくちょく顔を出すようになり、今では週2回以上行くような新たな「常連」の仲間入りを果たした。 業態としては居酒屋であるため、割烹料理屋やフレンチのように形式ばって凝り固まる必要はない。かといって価格帯は多少(?)高めであるため、学生が騒ぐような雰囲気とも違う。私としては1人で考え事をして飲んでいても、あるいは本を読みながら食事をしていても場違いにならず、ちょうどいい喧噪で居心地がいい。それになにより料理が美味く、働いている人がみんな素晴らしい。 22時を過ぎ、お客さんも半分以上が帰り、一段落してきた。残っているのは私と同様にカウンターで1人で静かに飲んでいる観光客らしい一見と思われる男性と、奥のテーブルにいる私より多少年配だと思われる女性4人組だけだ。彼女たちは既に焼きおにぎりと稲庭うどんを食べているので締めに入っているようだ。私は軍鶏の塩焼きを食べつつ米焼酎であるよろしく千萬あるべしのロックを飲みながら太田和彦の一人呑む京都を読んでいるというより文字を目で追っていた。 「こちらへは観光ですか?」 山口さんが観光客らしい男性に声をかけた。 「観光できました。昨日東京からきて京都に2泊して明日の夕方帰ります。以前この店に来たことある人がお勧めしてたんで来れてよかったです」 「そうですか。気に入ってもらえればうれしいです」 「どの料理も美味しくてとっても満足しました」 「それで、話しは変わるんですけど一つお聞きしたいことがあって。明日、嵐山のほうに観光で行こうと思っているんですけどお勧めの場所とかありますか?」 「嵐山ですか・・・天龍寺とか野宮神社とかですかねえ。あ、ちょっと待ってください。長ちゃん、どっかええとこある?」 「なんでそんなこと俺に聞くんですか。嵐山は山口さんの地元じゃないですか」 「だからや。地元の観光地なんて行ったことないに決まっとるやろ。天龍寺なんていついったかも覚えてへんわ。法輪寺さんや渡月橋なんかは子供の十三詣りで行ってるから覚えているけど。この長ちゃんって人、関東の人間で、1年ちょっと前から京都に住んではるんやけど、私ら京都の人間より京都のことに詳しいんで教えてくれますよ。な、教えてやってや。知っとるんやろ」 「まあ、知らないことはないですけど」 山口さんに言われて私が口を濁していると 「是非、教えて頂けないでしょうか」 と観光客も言ってきた。 「私は嵐山方面でしたら祇王寺が好きですかね。駅からは少し歩きますが、その代わりに人は少ないですし外国人はほとんどいなくなりますよ。小さな寺ですけど苔の庭や静かな雰囲気が好きな人にはいいと思います。それに平家物語由来なんでその辺も好きなら尚更」 「嵐山って橋とか竹林のイメージしかなかったです」 「嵐山でいいのは先ほど話した祇王寺がある奥嵯峨エリアだと思っています。でも、初めて行くならやっぱり有名どころには行っといたほうがいいかもしれませんね。渡月橋に天龍寺に竹林。桜や紅葉の時期からは外れているのでそれほどではないにせよ混雑することは覚悟しなくちゃならないですけど」 「この前アニメで平家物語みたばっかりですし、せっかくなんで祇王寺に行ってみますよ。エピソードはあまり覚えていないんで思い出せないかもしれませんけど。その後時間があったら有名どころも廻ってみます。ありがとうございます」 「へえ、やっぱり詳しいもんやな」 「そりゃあ、京都好きですから」 そんな話しをしながら飲み続け、しばらくすると観光客の男性はお会計をして帰っていった。 「長ちゃん、今日は何してたん?」 「今日は休みだし、暑いからほとんど家にいた」 「何もしてへんの?」 「いや、家にいたら、朝早くから1時間か2時間おきにカランカランと鈴をもって歩いている人がいたから不思議に思って外に出て近所を歩いてなんかやっているのか確かめてみたんだよ。そしたらいたるところで地蔵盆をやっていたよ。本当に輪になって大きな数珠を回していたのを見てちょっと感動した」 「ふーん。何に感動するのか俺にはわからへんけど、良かったな」 「そういうもんなんですよ。そんなことで感動するんですよ。そうでもなければいい歳して京都に1人で移住してこようなんて思わないじゃないですか」 「確かにそうかもしれへんな」 山口さんはいつもの柔和な笑顔で言った。 地蔵盆とは、地蔵菩薩の縁日を中心に行われる、子どもたちが主役の行事のことをいい、全国でおこなわれるらしい、が少なくとも私の生まれである群馬や住んだことのある東京や埼玉では聞いたことがなかった。京都の地蔵盆は五山の送り火後の週末に行われる地域が多く、町内単位で行われ、地蔵さんの祠の飾りつけをしたり、伝統行事の一つである「数珠まわし」を行う。これは、直径2~5メートルの大きな数珠を囲んで輪になって子どもたちが座り、僧侶の読経にあわせて順々にまわすというもの。  京都の地蔵盆に関しては話しには聞いたことあるし、ネットの記事でも読んだことがある。ただ、いざ実際におこなっている様を目にし、耳にすると感慨深いものがある。それに、行事開始の合図として鈴を持って町内に知らせていることはどこにも書かれていないし、知らなかった。地蔵盆を見ることに加えて、こういった些細で細部にわたる一挙手一投足を体感し、学んでみたくて、京都に移住してしまった。傍から見れば突拍子な行動でありかつ奇怪にうつるかもしれないが、旅行だけでは決して満たすことができないこういったマニアックな欲求を満足するためにキャリアを捨てる決断をした。京都文化、そしてそれを構成する京都人に勝手に魅了され、ただ単に『知りたい』と思ってしまったのだ。それを叶えるためには、私には京都に住むしか選択肢がなかった。 結婚して所帯を持っていたわけでもないので身は軽かった。ただ、自分にとっては大事にしていたものを捨てる覚悟があった。15年近く第一線で働いてきた特段好きであったわけではないけどそれなりのやりがいと評価をされていた仕事であったり、飲み歩き・食べ歩いたことによってできた馴染みの店が多くある慣れ親しんだ街であったり、昔ながらの生粋の職人肌江戸っ子でありながら、ウィットに富んだ大将がいる週1回は通う大好きなお鮨屋さんであったり、いつも散歩で行っていた東京郊外のお気に入りの大きな公園であったり、駅から徒歩3分で周囲300mにコンビニ3社・飲み屋・定食屋・弁当屋・パン屋・スーパー・ドラッグストア・病院・クリーニング屋・本屋と1人暮らしにとって全てが揃っているマンションであったり、生活の安定であったり、少ないとはいえ気軽にあって飲みに行ける友人とも離れることになった。 23時を過ぎ、店内も私と開店当初からきているという常連の桂さんだけになった。私と桂さんはグラスの白ワインを頼み、なぜか山口さんも便乗して飲んでいる。3人いるホールスタッフの2人は既に早上がりをして、残りはミホちゃんだけになった。ミホちゃんは京都市内の大学に通う4回生で卒業したら看護師になることが決まっている。小柄で仕事中は表情に乏しいところがないわけではないが、先を読みながら注文を取ったり、配膳する姿には無駄がなく、なんとなくこちらに安心感と癒しを与えてくれる。ただし、いわゆる『天然キャラ』というやつであり、何を考えているのか全くわからない。おそらく何も考えていないともとれる。それに恐ろしいほどに何も知らない。常識というものがない。 以前、何かの拍子で歴史の話しになった時に私が「ミホちゃん、鎌倉時代って西暦何年?」と聞いたら「うーん、さんびゃく・・・」と言い始めた時には度肝を抜かれた思いだった。 それなのに辰吉には珍しい日本語が話せない外国のお客が来た時に、流暢な英語で対応している姿を見せる時もある本当に不思議で魅力的な子だ。 ミホちゃんの生まれと育ちは京都市内、しかも洛中である。京都の奥深いところまで知りたい私にとってはまさに垂涎の的である。ただ、いろいろと京都関連のことを質問すれど、ほとんど知っていたためしがない。これが地元の人は地元のことをあまり知らないという単なるあるあるなのか、ミホちゃんが特別に知らないのかいまいち判断がつかない。きっと後者だと思いたい。 「そういえば、長ちゃんは五山の送り火のときはどうしてたん?やっぱり大の字を見に行ったんか?」 酒を飲んで少し上機嫌になったのか、今日の仕事が落ち着いたという安堵感からくるものなのか山口さんが軽い語り口で聞いてくる。 「家から見てたよ。前の会社の先輩が大阪から見に来たんで一緒に。天気も良かったしよくみえたよ。遠くからみると、火じゃなくてLEDか何かの電飾みたいにくっきりとしていて、不思議な気持ちになったなあ。でも火を見ながらちゃんとおしょらいさんを送るために神妙に手を合わせて祈ったよ。京都人はみんなそうするんでしょ?」 「一部しかせえへんわ」 いつもの定型文のようなやり取りを終えると山口さんが 「ミホ、五山の送り火って大のほかに何があるのか知ってるのか?」 ミホちゃんは洗い物をしている手を止めて顔を上げて少し考えて 「花・・・・・とか?」 はにかんだ表情で照れ笑いを浮かべながら話すミホちゃんに私はあっけにとられつつ、桂さんや厨房のスタッフと一緒に大爆笑した。山口さんは「これだからミホは・・・」と、いいつつ同じく笑顔でミホちゃんを見守っている。 「長ちゃん、ありがとう。おおきに。明日もやってるから来てや」 辰吉の赤い暖簾を上げながら山口さんに見送られ、少しおぼつかない足で外に出た時には0時を過ぎていた。入店した時よりも若干気温が下がったかもしれない。不快さはほとんどなくなっていた。京都に移住して1年半が経つ。良かったかどうかはまだわからない。あの頃と比べて日々充実しているかと言ったらそれは言い切れない。今のところ、仕事は昔の方が楽しかったし、生活の不安もはるかに増した。おそらくストレスも増えたはずだ。きっと、よかったどうかがわかるのは10年後、20年後になるのかもしれない。あるいは死ぬ時までわからないかもしれない。人間は自分の過去を否定したくないものだろうし、無理やりにでも正解だったと言い聞かせるかもしれない。 それでも今日のように新たに学ぶことや、みんなと笑える場所がここ京都に存在していることが素直に嬉しい。南南西に浮かぶ三日月をみながら、明日も頑張らないとなって思いつつ、小さな通りを下がって家路についた。  
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