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僕は大学を休んで、セツナを見送った。
悲しみより無力感が大きいからだろうか。
不思議と涙は出なかった。
斎場を出る時、彼女の母親に呼び止められる。
「これを、あなたに返してほしいと頼まれていたの」
受験勉強の時、セツナに貸していたノートだった。
すっかり存在を忘れていた。
彼女の母親は、優しい笑みを浮かべる。
「受験するって聞いた時、驚いたわ」
「申し訳ありません。僕がけしかけたんです」
「謝らないでください。むしろ感謝してるわ」
「結局、何も変えられませんでした」
セツナの母親は、首を大きく横に振る。
「そんなことありません」
「残された時間を無駄にしただけですよ」
僕は歯を食いしばり、下を向いた。
彼女の母親は、僕の肩にそっと手を置く。
「セツナはあなたに救われた。だって、あの子の余命は――」
彼女の母親の言葉に、耳を疑った。
家に戻ると、僕はおろしたてのスーツを丁寧にハンガーへかけた。
ベッドに腰を下ろし、ノートを開く。
彼女がよく間違っていた公式に、桜色の蛍光ペンが引かれていた。
たまに、恐ろしく下手な犬のイラストが描かれていた。
犬は、『ここがポイント』と人間の言葉をつぶやいている。
「勝手に落書きしやがって」
僕は苦笑し、ノートを閉じようとした。
その時、最後のページに何か書かれていることに気づく。
『楽しかった』
セツナから僕に宛てた、たった五文字の手紙。
あの夏、校舎の屋上で彼女に声をかけられた時のことを思い出す。
『お前にだけ私の秘密を教えてやる』
まったく、嘘ばかりつきやがって。
セツナの母親は言った。
『あの子の余命は、二月までと言われていたの』
彼女はずっと秘密にしていたのだ――本当の余命を。
もし彼女が冬にいなくなれば、僕は驚いたに違いない。
そして、彼女が後悔しない生き方をしていたと気づく。
将来ばかり見ていた僕を、変えるきっかけになっただろう。
「悪くない計画だが、詰めが甘い」
彼女の計画は失敗に終わった。
僕とセツナ、お互いが変わってしまったのだから。
ざまあみろだ。
「こちらこそ、楽しかったよ」
僕はノートを閉じる。
そして、明け方まで声を出さずに泣いた。
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