第十一話 春を待ち焦がれる

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「え……?」  彼女は分かりやすく戸惑いの色を浮かべた。  それもそうだろう。  眠っている間に出会っただなんて言われても、頭のおかしいやつだと思われるだけだ。  僕は、肩にかけていたギターを下ろし、少し海から離れて、とある旋律を奏で始めた。夏海はやっぱり、まだ状況を理解できない様子でギターを弾く僕を見守っている。  僕は深く深呼吸をすると、精一杯、声帯を震わせ始める。 「“春風がぼくらを誘う  ねえ、見て  ねえ、聞いて  物語のヒロインみたい  きみはくるりと踊って会釈する  三人の輪はかたちを変え  四人の輪になり回りだす  きみはみんなを大切な仲間というかもしれない  だけどぼくは輪っかを壊しにかかる  きみが夢見る未来を守りたい  太陽みたいにきらきら光る目で語るその夢  ぼくはまぶしくて時々目を閉じたくなるほど  だけどやっぱりもう一度まぶたを上げる  きみが夢を語る姿見ていたいんだ    壊れそうなこの想いは  夏の寂しさに溶け見失いそう  失ったのはいちばん大切だったはずの音  いちばん自分らしくいるための声  まっくらな海の底に沈む  想いのかけらは弾けて見えなくなった   からっぽになったぼくの心が  海底で揺れ泡となる  この想いは誰のもの  この寂しさはどこへ行く  この気持ちが壊したものは  きっと僕の情熱と愛  きみへ伝えたかった言葉が沈む  絶望の淵でゆれるまなざし  僕がみつけたひとつの希望  手のひらからこぼれ落ちたと思うのは簡単  やがてこの手の中にあったと気づいた  きみへの恋はまだここにある  秋の晴れ間を差す黄金の光を  そっとまぶたの裏に感じてごらん  海の底で見えなくなってた  想いのかけらが降りそそいでく  言葉となって溢れ出すのは  たったひとつの僕の真実  変わらない心  変わりたくないもの  全力で叫び続ける  たとえこの声がもう二度と届かなくても  ずっとずっと言えなかった  ずっとずっと言いたかった  僕はきみのこと  壊れそうなくらい好きだ“」  海風が、僕の歌声をかき消してしまわないように、最大限自分の身体を鳴らして歌った。  僕がディーナスの世界で夏海のためにつくった歌だ。   あの時は声が出せなくて、実際に歌うことは叶わなかった。  でも現実世界に帰ってきた今、ようやく彼女にこの歌を届けることができたのだ。  誰かの前で歌を歌うという久しぶりの感覚に、僕はいろんな想いが溢れそうになる。しかもその相手が、彼女となれば、抑えきれない情動を止めることの方が、遥かに難しかった。  突然ラブソングを歌い始めた僕のことを、夏海はどう感じているのだろう。  やっぱり気持ち悪いストーカーだって思っただろうか。  夏海は僕の歌を聞いて、凍りついたように固まっていた。  けれどその身体が、次第に震えていくのに気がつく。 「……春樹くん」  か弱気な声を震わせる彼女の言葉に、僕ははっと息が止まりそうになった。 「春樹くん。春樹くん、だよね……?」  彼女自身も、どうして僕の名前を自然に呼ぶことができているのか分からないというふうに、自分に問いかけるようにして訊いた。  僕は、信じられない思いで食い入るようにして彼女を見つめる。 「ああ、僕だよ。きみと、別の世界で出会った。信じられないかもしれないけど、僕はそこできみに恋をしたんだ」  僕の言葉を聞いた夏海の瞳の端に、涙の玉が溜まっていく。  夏海の中に、ディーナスでの記憶が残っている。  本当に信じられない。でも、僕は今この信じられない奇跡を目の当たりにして、心臓の音がうるさいくらいに鳴っている。  水平線に沈んでいく夕陽が、ちょうど僕たちの間を半分にするみたいに、黄金色の光の筋をつくった。彼女の頬が、赤く染まっている。もしかしたら僕の顔も、同じように赤くなっているのかもしれない。 「春樹、くん。なんでだろう……私、あなたを湘南の海で助けた時にしか会ったことがないのに、もっとずっと前から出会ってたような気がする。春樹くんの名前を呼んだ途端、胸が温かくなった。どうしてか分からないけど、懐かしい気持ちになってる。それに私、あなたを好きだったような、気がして」  変だよね、おかしいよね、と彼女が涙をこぼしながら呟く。僕はそんな彼女の言葉に首を横に振った。 「変じゃない。確かにきみの中では不可思議な現象かもしれないけど、僕は、きみがあの世界でのことを思い出してくれて嬉しいよ……」 「春樹くん……」  彼女はそれから何度も、「春樹くん」と僕の名前を口にした。  何かを思い出すように、不完全な記憶を、確かなものにするように。  やがて僕たちの間の距離が、触れてしまいそうなほど近くなって、僕と彼女の身体が、差し込んでくる夕陽の光を遮って。  柔らかい何かが、僕の唇に触れた。  優しくて甘くて、一瞬だけど僕はその瞬間、幸福に包まれた。 「春樹くん、大好き」 「ああ、僕も。夏海のことが好きだ」  僕たちは互いの存在を確かめ合うようにして、もう一度唇を重ねる。  身体の半分は夕陽で灼かれて、冬だというのに暖かい。  もうすぐ春が来る。  彼女のいるこの世界で、僕は春を待ち焦がれている。
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