第7話 市

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第7話 市

「おい、テレシア! あっち凄いぞ!」 「お待ちください、チェス様!」  駆け出しそうになったチェス様の服を引っ張ると、勢いよく進もうとされていた体がガクンと止まり、翠色の瞳が恨めしそうに私を見ました。  私たちは街に出ていました。  丁度、市が出ていて、チェス様が誘ってくださったのです。  ベーレンズ家でお仕えしていたとき、私たち姉弟は外出を許されず、話でしか市を知りません。  とても興味が惹かれたのですが、街に出るのならヴェッセル様のお許しを頂かないといけないこと、離縁も視野に入っている私があまり人目に触れるのは良くないという理由で、最初はお断りいたしました。 「んー……じゃ、兄貴の許可が貰えれば納得できるんだな?」  チェス様が不服そうに仰った時、突然ドアがノックされました。  私が声をかけるよりも先にチェス様が開けたドアの向こうにいたのは、恐らく両手で数えられる程度しかお会いしていない形だけの夫、ヴェッセル様だったのです。  ちなみに彼が別邸にやってこられたのは、ご案内を頂いた時以来でしょうか。  ヴェッセル様はいつもと同じ微笑みを浮かべながら、部屋に入ってこられました。 「おい、今からこいつを街に連れて行くからな。一緒に市をまわるんだ」  兄とはいえ御当主を前にしているとは思えない大きな態度で、チェス様が仰います。  ハラハラする私を尻目に、ヴェッセル様は微笑みを崩すこと無く、軽く頷かれました。 「ああ、行ってくると良い。シャルロッテ嬢も、ずっと別邸内にいて退屈でしたでしょう。気が回らなくて申し訳ない」  ヴェッセル様が私に謝られたので、慌てて首を横に振りました。 「い、いえ! あ、あの、チェス様が良くお見えになられて、お話相手になってくださったので退屈なんて……」 「はぁ⁉ 俺がお前んとこに来てたのは、菓子を食うためだ! 話し相手なんかじゃねーよ!」 「ガサツな弟で申し訳ない。さぞ驚かれたでしょう」 「い、いいえ! いつも私が作ったお菓子を美味しそうに食べてくださるので、嬉しいです」 「うっ、うっせー‼ 勝手なことを言うな!」 「ああ言ってはいるが、弟はあなたが作るクッキーが好きなのです。良かったら、懲りずに作ってやって頂きたい」 「はい、もちろんです」 「お前ら! 俺を置いて話進めてんじゃねーぞっ‼」  チェス様の叫びが部屋に響き渡りました。  こうして私は、チェス様と一緒に外出する許可をヴェッセル様に頂き、初めて街に出たのです。  市が開かれているためか、人通りが多く、とても賑やかでした。  興味がそそられるものが山ほどあり、その度にチェス様が駆け出そうとするので、はぐれないように服を引っ張るのが大変です。  この人通りです。はぐれてしまったらお互いを見つけ出すのは、きっと困難でしょう。  こうなったら、お互いの体をロープで結ぶしか―― 「ん」  考え込む私に向かって、チェス様が手を差し出されました。  差し出された手の意味が分からず首を傾げていると、ズイッと手を近づけてきました。  もしかして…… 「互いの体を結ぶロープを、寄こせということでしょうか?」 「ちげーよ‼ お前、何考えてんだっ‼ 手を繋げってことだよ‼」 「あ、そちらでございますか」 「それ以外に何の意味があると思ったんだ……」  呆れた様子でチェス様が舌打ちをすると、私の手をグイッと掴まれました。  私と同じ年頃のチェス様ですが、言動が子どもっぽいので、失礼ながら弟のように感じていました。  しかし握られた手は、私の手を包み込める程大きく、男性らしくガッシリしていて――  何故か心臓が大きく音を立て始めました。  首の辺りが熱くて堪りません。  私は体の異常を気にしつつも、チェス様に手を引かれながら、色んな所をまわりました。  たくさんのお店を見て、遠い街から運ばれてきた食べ物を食べました。  大道芸人たちが繰り出す技や、吟遊詩人の歌を聴きました。  花屋の前を通ると、私の好きな花が売っていました。花を見ていることに気付いたチェス様が立ち止まりました。 「テレシア、あの花が好きなのか? なら買えばいいだろ」 「でも持ち歩いている間に、悪くなるかもしれません。それにお花は、別邸の庭にもたくさん咲いていますから」  チェス様は何度も買うよう勧めてきましたが、お断りしました。お伝えした理由もそうですが、一番は、これ以上偽物である私にお金を使って貰いたくなかったからです。  私が頑なだったせいか、それ以上何も仰いませんでした。  陽が沈みだし、人通りも少なくなってきています。 「私たちも帰りましょうか。人通りも少なくなってきていますし、もうはぐれることもないでしょう。手を離して頂いても大丈夫ですよ」 「あ、ああ……うん、そうだな」  何故か言葉を詰まらせながら、チェス様は手を離されました。  ずっと温もりに包まれていた私の手に、ひんやりとした空気が触れたとき、何故か急に胸の奥まで冷たくなった気がしたのです。
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