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こうして、深夜の我が家にて修羅場の幕が開いた。
困惑しつつも土下座して詫びる俺に対し、妻は延々と罵声を浴びせ続けた。
起き出してきた娘は無言のままで、冷たくて嘲りを湛えた視線を俺に注ぎ続けていた。
「どうして…! どうして私を裏切ったの?! どうして私たちを裏切ったの?!」
怒りを湛えた妻の叫びが、俺を強かに打ち据える。
俺は「済まん…、本当に悪かった…」と、詫びの言葉を口にするばかりだった。
胸中に釈然とせぬ思いを抱えたままで。
家族と過ごす一時が何よりも大切な俺が、どうして職場での不倫などに奔ってしまったのだろうとうという不可解な思いを抱きながら。
憤怒の形相となった娘は、「ドタンガタン!」とわざとらしい大音を立てて階段を上り、自分の部屋へと去って行った。
妻の右手が再び振り上げられ、俺の左頬に衝撃が、そして痛みが走る。
辛うじて離婚だけは避けることが出来た。
けれども、家庭の中で俺の居場所はすっかり無くなってしまった。
妻は、もう俺の顔など見たくも無いと言った。
私が起きている間は家に居ないでくれと言い放った。
娘もその言葉に大きく頷いた。
憎悪に満ちた眼差しを俺に向けながら。
そして俺は、家族が寝静まってからでないと家に戻れぬことになってしまった。
これまでは妻が昼の弁当を用意してくれていたが、それも一切が無くなった。
小遣いも大幅に減らされてしまい、気軽に呑みに出掛けることも出来なくなってしまった。
乏しい小遣いの中から朝食と昼食を賄うと、僅かな額しか手元には残らなかった。
会社の中にあっても、相当に肩身が狭い状態となってしまった。
部下と不倫関係にあったことは社内で広く知られてしまった。
妻が俺の上司へと苦情の電話を入れてしまい、そのことで俺も、そして件の部下も叱責を受けてしまったのだ。
同僚たちが俺に向ける視線は、実に冷ややかなものとなった。
一緒に呑みに行くこともあった同僚たちからは一切の誘いが掛らなくなった。
職場では白眼視され、家に帰っても家族と普通に関わることすらままならない状態となってしまった。
不思議なことに、あの『地獄特急』とやらに一緒に乗り込んだ葛西のことは、誰も覚えていなかったのだ。
いや、彼が存在した痕跡すらも遺されていなかったのだ。
葛西が座っていた席には、彼と同じぐらいの歳の痩せぎすで黒縁眼鏡の男が座っていて、いかにも慣れた様にて同僚や取引先とやり取りをしていた。
同僚に葛西のことを知らないかと尋ねてはみた。
けれそも、「誰ですか、その葛西って? そんな人って、うちの職場に居たことなんてありませんよ」と、愛想の無い答えが返ってきただけだった。
密かに会社の人事記録を覗き見てみたけれども、葛西に関する情報は、その一切が存在していなかった。
まるで、彼が最初からこの会社に在籍などしていたかったような有様だった。
薄れつつあった記憶を何とか手繰り、葛西が住んでいたマンションに趣いたこともあった。
彼の家に招かれ、奧さんの手料理をご馳走になりつつ酌み交わしたことが幾度かあったのだ
けれども、表札に記されていた苗字は全く異なるものだった。
狼狽えた俺は、思わず呼び鈴を押してしまった。
「はーい!」と返事をしつつ玄関口に出て来たのは葛西の奧さんだった女性だった。
俺とは幾度も顔を合わせたことがある筈だったのに、まるで覚えていないようだった。
俺が葛西のことを訊ねても、「誰ですか、その『葛西』って人は?」と、不審げな調子にて答えを返すばかりで、まさに取り付く島も無いといった様だった。
次第に気色ばみつつある会話を聞き付けたのか、部屋の奥から男性が顔を出した。
「誰ですか、貴方は?」と、仄かながらも怒りを湛えた口調にて問い掛けて来る男性に気圧された俺は、そそくさと去らざるを得なかった。
肩を落としてマンションから歩み出た俺は、こう確信せざるを得なかった。
葛西は、この世界からすっかり消え失せてしまったのだと。
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