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けれども、俺の怯えめいた心境など知る由も無い葛西は、「あれっ、何か…、変じゃない?」などと大声を上げ始める。
恐らく、彼はまだ酒が抜けきっていないのだろう。
俺と葛西は職場の同僚であって、この電車に乗るまでは駅近くの居酒屋で散々に飲んだくれていた。
酒の肴は上司である課長の悪口だった。
定年も間近な俺らの課長は優柔不断な上にコミュニケーション能力が低く、そして物覚えだって頗るよろしくない。
部下である俺らの足を引っ張ることこそ往々にしてあれど、仕事をサポートしてくれることなど皆無と言って差し支えないのだろう。
そして恐るべきことに、自分の愚かしさや能力の低さを全く以て自覚しておらず、自分は頗る能力が高く、そして非常に部下思いであるという謎めいた自意識を抱いているようなのだ。
そんな調子だからマトモに仕事の話など出来る訳も無くて、それに加えて取引先からは毎日のように苦情が寄せられるのだ。
困り果てた俺は、それとなく部長に掛け合ってみたこともある。
あの課長、何とかして下さい、と。
けれども、部長はのらりくらりと言い逃れをするばかりで、課長が何処かにトバされる気配など在りはしなかった。
どうせ課長は間も無く定年を迎え、自然に姿を消してしまうのだ。
それまでの間、俺や葛西になんとかさせようというのが部長の腹積もりなのだろう。
仕事が出来ない使えないといった理由で課長を左遷しようものなら、人事上のミスとして部長にだって累が及びかねないのだ。
そんな訳で、俺と葛西は週末になるたびに課長の愚痴を垂れ流しつつ呑んだくれるしか術が無いのだ。
今夜も散々呑んだくれて、そして締めとして俺が足繁く通っているキャバクラへとしけ込んで来たのだ。
それはさておき、未だに絶賛酔っ払い中な葛西はメイド女の姿を認めたらしい。
「あ~! 可愛い子いるじゃん!!!」と大声を上げた葛西は、フラフラと席から立ち上がる。
「お…、おいっ! 止めろって!」と、手を伸ばして葛西の服を掴んだ俺は小声にて制止する。
それは、半ば本能的な行動だった。
もしも、あのメイド女を怒らせでもしたら絶対にヤバいことになる!
あの女の禍々しいとしか言いようのない眼差しを目にした刹那、俺はそう確信してしまったのだ。
けれども、葛西は俺の必死の制止など全く気に介さない様子であって、俺の制止を振り切って、メイド女のほうへフラフラと歩み寄りつつあったのだ。
でっぷりと膨らんだ下腹部をプルプルと震わせながら。
近寄りつつある葛西に気が付いたメイド女は、ギロリと睨み付ける。
殺気や憤怒、あるいは侮蔑。
そんな感情が入り混じったかのような、身も凍りそうな眼差しだった。
けれども、葛西は依然としてメイド女のほうへゆるゆると歩み寄って行く。
ガタン、ゴトンと電車の振動が伝わり来る。
覚束ない足取りの葛西は、電車の振動にふらつきつつもメイド女との距離を詰めていく。
そして。
奴は歩み寄りながらこう雄叫んだのだ。
「オラァ、メイドねーちゃんよぅ!
ご主人さまぁ、萌え萌えキュン!って言えよ~!!!」
そう、この葛西はオタク趣味なのだ。
独身だった頃の彼は秋葉原に足繁く通ってはメイド喫茶をハシゴしていて、それを武勇伝のように聞かされたものだった。
今ではもう結婚し子供も産まれたものの、奧さんの目を盗んではちょくちょくメイド喫茶へと足を運んでいるらしい。
そんな葛西故、メイド女を目の当りにしたら、思わず本来の調子が出てしまったのだろう。
「チッ!」と舌打ちの音が響く。
それは、あのメイド女が発したものだった。
俺は恐る恐る女の方を見遣る。
そこで身の凍るような思いを抱かされてしまう。
メイド女はその顔に憤怒の表情を浮かべていたのだ。
瞳の中には怒りの焔が燃え盛っているようであったし、その歯は「キリギリ!」と耳障りな音が響き聞こえて来そうな程に固く噛み締められていた。
そして…、左手に持った銃を真っ直ぐに構えていた。
その銃口は葛西へと向けられていたのだ。
長々と延びた銃身からは殺意がゆらゆらと立ち昇っているように思えてしまった。
俺は思わずブルリと身震いしてしまう。
依然としてフラフラとメイド女に歩み寄りつつある葛西の姿が目に入る。
「葛西っ!逃げろぉーっ!」
俺がそう叫んだのと同時だった。
「ズダァーン!」と、耳をつんざくような轟音が車内に鳴り響いたのだ。
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