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俺の心は恐怖にて染め上げられつつあった。
葛西やバーコードオヤジと同様に、銃で撃たれた挙句にドーナツへ姿を変えられることへの怖れが胸中に込み上げつつあった。
あのメイド女に嬉々として喰らい尽くされてしまう怯えが心を占めつつあった。
こんなにも訳の分からない状況で、こんなにも意味の分からない死に方をしてしまうなど想像したことなど無かった。
俺は妻、そして娘の顔を思い浮かべる。
学生時代に知り合った妻とは六年の交際期間を経て結婚したけれども、出逢った頃と替わらぬほどに仲睦まじいのだ。
娘はこの春に高校へと進学したばかりだ。
入学式の日に高校の正門前で一緒に撮った画像は、スマホの待ち受け画面にしてある。
順風満帆と言えるほどの人生では無いし、会社では無能な課長に難渋させられているけれども、それなりに幸せなのだろうと自分では思っていた。
でも、そんな人生が、葛西のように訳の分からない形で終わりを告げてしまうかもしれないなんて。
「安心しろ!
そのまま大人しく座っていれば、安らかに地獄行きだ!」
メイド女の声が響く。
俺の胸中に沸々と疑問が湧き上がる。
地獄に行くと宣言する一方で、安心しろだなんて本当に意味が分からない。
ドーナツに姿を変えられ喰われてしまうのと何が違うというのだ?
「あ…、あの!」
知らず知らずのうちに、俺の口は呼び掛けの言葉を放っていた。
俺へと振り向いたメイド女は、その顔に怪訝そうな表情を浮かべていた。
瞳は冷え冷えとした殺気を湛えているように思えた。
「俺らは一体、どうなるって言うんです?
『地獄行き』って何なんですか?!」
俺の問いかけを「フン!」とせせら笑ったメイド女は、凶悪な微笑みをその顔に浮かべる。
そして、その銃口を俺に向けてからこう言い放つ。
「言葉の通り、地獄に行くのだ!
貴様らが思い描く至高の苦しみ、それを永遠に味わい続けるのだ!」
「何なんですか地獄って?!
血の池とか針の山とか…、それとも火あぶりとかですか?!
何で…、何で俺が地獄になんて行かなきゃいけないんですか?!」
口から迸る俺の言葉は、次第に気色ばみつつあった。
メイド女の瞳が怒りで染め上げられつつあるように見えた。
あぁ…、殺される。
俺も、ドーナツにされるんだ。
そう思った。
冷ややかな後悔が胸にジワリと込み上げる。
その時だった。
そろりそろりと音も無く、メイド女の背後に忍び寄りつつあった一人の男。
三十代も半ばと思しき、まだ若々しさを残した小柄で精悍な男が、低い姿勢で以てメイド女へと突っ込んで行ったのだ。
体当たりで以てメイド女を組み伏せようとでもしていたのだろう。
けれども。
メイド女は左手で構えていた銃を宙へと放り投げる。
銃はクルクルと廻りながら宙を舞う。
そして女は、クルリをその身を翻す。
短いスカートの裾がヒラリと捲れ上がり、白く肉付きのいい太腿を露わにする。
女はその身を回転させながら右の脚を高々と振り上げた。
振り上げられたしなやかな脚。
その爪先は、突っ込みつつあった男の左側頭を、ものの見事に捉えたのだ。
一瞬、男の頭がグニャリと歪んだようにも見えた。
蹴りをマトモに喰らった男は、その顔を苦しげに歪めながら襤褸切れのように吹っ飛んで行く。
苦悶の声を吐き出す暇すらも無いようにして。
メイド女はつい今しがた放り投げた銃を「パシッ!」と左手にて受け止める・。
そして、その銃口を吹っ飛びつつある男へと向けたかと思うと、一切の躊躇も無いままに引き金を引く。
銃声が轟く。
男は吹っ飛びつつある姿勢のままで宙にその姿を留めていた。
その胸には大きな穴が黒々と空いていた。
葛西、そしてバーコードオヤジと同じように、穴がその身体を貫いていた。
「パチン!」と指を鳴らす音が響く。
男の身体は見る見る間に人の姿を喪い、ドーナツへと変わり果てて行く。
色とりどりの細やかなチョコレートをまぶした可愛らしげなドーナツへと。
小さく歓声を上げたメイド女は風のように駆け寄り、その右手にてドーナツを掴む。
嬉々とした様にてドーナツへと喰らい付く。
凍て付いたような雰囲気の中、女がドーナツを貪る咀嚼音だけが響き渡っていた。
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