5人が本棚に入れています
本棚に追加
俺は、心が急速に冷え行くことを感じていた。
俯いていた妻がゆっくりとその顔を上げ、視線を俺へと向ける。
俺の胸を慄然とした思いが満たし行く。
妻のその顔には、まさしく般若の如き燃えるような怒りが滾っていたのだ。
視線は冷え冷えとした白刃の如き殺気を纏っていた。
俺をキッと睨み付けた妻は、ゆらりと椅子から立ち上がる。
殺意に漲る視線を注ぎつつ、俺の元へ一歩、また一歩と確かめるかのようにして歩み来る。
その様は、まるでスローモーションのようにも見えてしまった。
俺の前に立ちはだかった妻の身体からは、赤黒い怒りの気配が漂い出ているように感じられた。
俺の脇から冷や汗がポタリと滴り落ちる。
只ならぬその様の訳を訊ねようとして、口を開きかけたその時。
妻はその右脚を高々と上げ、俺の左膝辺りへと強かに蹴りを叩き込んできたのだ。
「うぐっ!」と、呻きを漏らした俺は、身体をグラリと左に傾かせる。
驚きに心を包まれながら妻の顔を見遣る。
その顔には相変わらず般若の如き怒りが漲ったままで、視線に漲る殺気は度合いをより増しつつあった。
妻は再び俺の左の足へと蹴りを叩き込む。
苦しみの呻きを漏らした俺は、思わず床の上へとへたり込んでしまう。
妻がその手を振り上げる気配が伝わり来る。
俺の左の頬に衝撃が走る。
僅かに遅れ、ひりつくような痛みが頬を染め上げる。
その時、俺はおそらく呆然とした様で妻の顔を見上げていたのだろう。
結婚して十八年を経た妻とは、これまで喧嘩らしい喧嘩などしたことなど無かった。
無論、互いの間に暴力沙汰など起きるはずも無かった。
けれども、俺は今、妻から蹴り倒され、それに加えて頬を強かに叩かれたのだ。
戸惑い狼狽するしか無かったのだ。
そんな俺の目の前に、茶封筒がグイと突き出される。
テーブルの上に置いてあった大振りの茶封筒が。
印字された興信所の名前は、駅前の看板で目にしたことがあるものだった。
突き出された茶封筒をおずおずと受け取った俺は、その中身を確かめる。
俺の心は更なる驚きと衝撃にて包まれる。
それは、俺が会社の部下である女性と不倫関係にあることを記した調査報告書だったのだ。
五十枚以上を優に超えるであろう分厚い報告書には、不倫相手とされる会社の部下の顔写真やその経歴などが事細かに記されていた。
そして、ここ一ヶ月に渡る俺の行動の詳細が記されていて、俺が件の部下と一緒に、人目を憚るような素振りを見せつつラブホテルから歩み出てくる写真までもが載せられていたのだ。
「何なのよ! これはっ!!!」
妻の怒鳴り声が俺の耳へと響き入る。
俺は呆然としたままで、報告書の頁をめくり続けていた。
冷や汗や脂汗が額を滴り落ちる。
俺は心の中で絶叫する。
一体、何なのだこれは!
これは一体、何の悪ふざけなのだ!
妻を一筋に愛し、娘の成長を何よりも願ってきたこの俺が、どうして不倫などしなければならないのだと、心の中にて絶叫する。
けれどもその一方で、奇妙な思いもまた心を占めつつあった。
俺の中では、件の部下との道ならぬ逢瀬の様が緩やかに思い返されつつもあったのだ。
困惑に包まれ行く俺の脳裏にて、あの雄叫びが蘇る。
『貴様らは! 地獄行きだ!!!』との、終電の中で耳にしたメイド女の雄叫びが。
妻が纏う怒りの気配が、その濃さを増したように思えた。
俺の頬に再び衝撃が、そして痛みが走った。
最初のコメントを投稿しよう!