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「次からは怪我はできるだけしないで」
「…ん」
「怪我したなら、俺を頼って」
「…分かった」
包帯で手のひらをくるくる巻かれる。
慣れていないのか、少し不恰好な巻き目だ。
涼に落ち着いた声音で諭すように言われ、素直に頷く。
涼の浅くついた息が、小さく震えていた。
「……俺はね、瑞樹が大切なんだ」
__何よりも、ね。
そう言って、涼が包帯の先を結んで処置を終えた。
「瑞樹がいるなら何もいらないし、何も望まない」
涼の少し骨ばった手が、僕の頬に柔らかく触れた。
少し高い体温が、自分の頬と溶けてくっついてしまったかのような感覚に、ゆっくり瞬きをした。
お互いの吐息が聴こえてしまいそうな距離。
保健室の不思議な空気が、今だけ時を止めたような気がした。
涼の綺麗な黒い瞳が、諦めたように細められた。
「でも瑞樹は、すぐに飛んでいってしまうだろう?」
「……?」
「綺麗な蝶は、一人のものであるべきではないんだよ」
蝶?蝶々のことだろうか。
突然、よく分からないことを言われ、思わず首を傾げてしまう。
__でも。
「ふふ、ごめんね。混乱させちゃったかな」
涼がそんな風に笑うから。
まるで、最初から全てを諦めてしまったような。傷付く前に一歩下がってしまうような。
そんな悲しい笑顔を、しないでほしい。
涼が眉を下げて申し訳なさそうに僕の頬から手を離した。
消えてしまった温もりを追いかけるように、涼の手を掴んだ。
「っ! 瑞樹、何して__!」
「僕には…っ、よく分からない」
涼みたいに頭の回転が速い訳でもないし、さっきの蝶々の話だって理解できた訳じゃない。
「…っだけど!」
「!」
「今ここにいるのは…っ!涼の前にいるのは……、」
「僕__宵嶺瑞樹だ!」
「……ぁ」
揺れていた瞳が、ぱちりと瞬いた。
いつも動いてくれない表情筋を目一杯動かして、涼に伝わるように、届くように。祈りながら、願いながら言葉を紡ぐ。
口下手な僕だけど。こんな時、何を言えばいいのか分からないけど。
「僕は僕。綺麗な蝶々はここにはいないし、僕は勝手に飛んで行ったりしない」
「…瑞樹……」
「そんな悲しい眼、しちゃ駄目なんだ。…子供も、大人も、誰だって……」
涼とブレて重なる、子供の姿。泣くこともせず、ただ金の髪を揺らして、紅の眼を諦念に染めて。年に合わない微笑を浮かべる小さな背丈の子供。
見ないように、視界に映さないように瞼を伏せて、すぐに目を開けた。
先程の子供は、もういない。
涼は俯いており、膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「そんなこと言われたら、俺、もう諦められないよ」
「…? なんで僕に聞くの」
「…あははっ!」
何故か僕に選択を委ねようとする涼に、首を傾げながら数度瞬きを繰り返す。
涼は何が可笑しかったのか、思い切り声を上げて笑った。
その顔にはもう諦めの感情は乗っておらず、晴れやかな笑みを浮かべていた。
涼は穏やかに笑いながら、目尻を優しく緩めた。
「…うん、やっぱり諦めたくないな」
涼は一人頷いて、おもむろに僕の左手を取った。
口元に運んで、薬指の付け根に触れる程の口付けを落とす。
そっと唇を離した仕草がやけに色っぽい。
そのまま、僕に流し目を寄越し、ふ、と微笑んだ。
「……今は、キスだけ…ね」
僕は、ぱちくりと瞬いて首を傾げる。
「違う、涼」
「ん?」
「正しくは、こう」
僕は涼の左手を優しく掴んで、手の甲に唇を寄せた。
ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして、僕は手の甲から口を離した。
「!? み、瑞樹っ?」
なんでか素っ頓狂な声を上げる涼に、僕はトントンと自分の口元を指で叩いた。
「手の甲のキスは、敬愛や親愛を表す」
「…え?」
「…? フランスの文化は、日本人には慣れないもの。大丈夫」
フランスでは親愛などを表すとき、スキンシップがやたらと多い。これは日本に来て初めて自覚した文化の違いだ。
カルチャーショック、というやつだろう。
涼は最近フランス語を勉強してくれているらしいけど、まだ文化までは詳しくないのだろう。手の甲にキスするところを、間違えて薬指にしていた。
本当は頬へのキスが一般的ではあるけど…、絶対って訳ではないし、まずは手の甲とかから始めた方がいいだろう。
そう思って、惜しい、と付け加えると、しばらく呆然としていた涼が、深く、それはそれはふかーい溜め息をついた。
そしてじとりとこちらを見ては、また溜め息をついた。
「瑞樹〜〜……」
「?」
「…いや、うん。分かってた。分かってたけど!だけどさ〜…っ!」
もはや呆れまで混じっていそうな目で見られる。
失礼な。なんだその目は。
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