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「ああ、でも、駄犬はだめね。バカな子ほど可愛いとはいうけれど。全く役に立たないのだもの」
あなたもそう思わない? と私はシエラの話を聞かず、会話もせず、一方的に言葉だけを並べながら彼女に近づく。
「急に何を、言って」
薔薇色の瞳に私しか映らない距離で、私は瞬きもせずじっとシエラを見つめる。
「……っ!?」
言葉を紡げなくなったシエラからはヒュっと息を呑む音が聞こえる。
暴君王女は、相手の都合など一切気にせず、媚びず、靡かない。
言葉すら届かず、得体が知れない。
だから怖いのだ。
「そうそう、一時期飼っていた子の話でしたね。"取って来い"を練習中だったのだけど」
薔薇色のその瞳は恐怖に陰り、本能が逃げろと告げている。
「帰って来れなかったわ」
残念、と私はシエラにだけ聞こえるよう、そっとその耳元に囁いた。
ゆっくりとした動作で身体を離し、その薔薇色の瞳に笑いかけ"暴君王女"の存在をシエラに存分に刻み込んだあと、私は優雅な動作で背を向け歩き出す。
もう用はないとばかりに、残酷なまでに存在を黙殺されれば、大抵の人間はこれから先の振る舞い方を考える。
特に、捨てられないモノが多い貴族という生き物は。
「……!! と、とにかく。陛下を煩わせないで頂戴っ!」
私の背中にシエラが吠える。
「あなたが、あなたなんかにっ!!」
だが、私の歩みは止まらない。
無駄だ。何を言われても、何をされても私は止まらない。
私が寵妃をやっているのは、色恋などではなくセルヴィス様との契約だから。
私には私の、譲れない理由がある。
「あの方の、セルヴィス様の隣に立つのはこの私。シエラ・フォン・リタよ!!」
そんな私の前方に素早い動作で回り込み、シエラは立ちはだかってそう宣戦布告する。
皇帝陛下の隣、つまり正妃になる。そう言った薔薇色の目は真摯なまでに必死な色をしていた。
「イザベラ妃にご挨拶申し上げます」
私が言葉を発するより早く、私達の後方から声がかかる。
「……グレース」
シエラがそう呼んだ彼女の方に視線を流す。
ヴァイオレットブルーの長い髪に紫紺の瞳の美しい女性が、綺麗な所作で私に微笑みかける。
グレース・ド・キャメル伯爵令嬢。セルヴィス様の正妃候補の一人だ。
伯爵家とはいえ、その"財"は帝国一。キャメル伯爵家は帝国四家の一つで、貿易で財を成し各国の要人とのパイプも持つと聞く。
「ごきげんよう、キャメル伯爵令嬢」
「イザベラ妃に名前を覚えて頂けているだなんて光栄でございます」
人当たりの良さそうな表情と鈴の転がるような声。立ち回り方をよく知っている人間のそれだ。
二人を相手にするのは骨が折れそう、なんて私が思ったのは一瞬で、
「シエラ、こんなところで道を塞いではいけないわ」
ね? とグレースは優しくシエラを嗜める。
「だって」
「だって、ではないでしょう?」
そう言われたシエラは先程までの勢いを無くし、唇を噛み締める。
「……分かったわよ」
折れたのはシエラだった。身分はシエラの方が上だが、まるで仲の良い姉と妹のようだ。
「もう、行くわ」
それだけ言うとシエラは私に睨むような視線を寄越して挨拶もせず去っていった。
「シエラが、申し訳ありません」
シエラの背を見送ったグレースは美しいカーテシーと共に私に謝罪を述べる。
「キャメル伯爵令嬢が謝る必要はないのでは?」
「大事な友人ですので」
ふふっと柔らかな笑みを浮かべたグレースは、
「私、イザベラ妃とも仲良くなりたいですわ」
一枚の封筒を私に差し出す。
「お茶会の招待状です。今日はこれをお渡ししたくて、後宮に向かっているところでしたの」
直接イザベラ妃にお会いだなんて、とても運がいいですわと笑ったグレースは、
「帝国で不慣れな事も多いでしょう。どうぞ、私共をお頼りください」
いいお返事をお待ちしていますと告げた後優雅な足取りで去って行った彼女からは、ふわりと甘い香りがした。
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