1人が本棚に入れています
本棚に追加
「ごめんよ。」と、男は言った。
「僕は引越ししなくちゃいけないんだ。わかってくれるね。」
白い毛並みに琥珀色の目の猫が、男を斜めに見上げていた。
春のうららの温かい朝。
小さな家の中で、一人と一匹が向き合っている。
男は申し訳なさそうに、同じ言葉を繰り返した。
「わかってくれるね。」
男はためらいがちに、猫に手を伸ばす。
「仕事の関係なんだよ。……むこうの社宅は、ペット禁止なんだ。」
男の言っていることがわかっているのかわかっていないのか。
白猫はただただじっと首を傾げて男を見つめている。
引越し。
社宅。
ペット禁止。
あまりにも、使う単語が難しすぎる。猫には、男の思惑は何も伝わらないだろう。
……ただ、ほんの少しの違和感が、猫に不安を抱かせたかもしれない。
「ごめんよ。」
ダンボールが、引越しトラックに山のように積み込まれる。ベッドもタンスも、皿も本も、全部綺麗さっぱり引き払われる。ただ————猫だけが置いていかれる。
「本当に、ごめんよ。」
男はちょっぴり泣いていたかもしれない。
しかし、男が一歩玄関の外へ踏み出し、青い空を見上げた時。
————ミャアオ、と鳴いた猫の声に、彼はもう気づくことはなかったのだった。
*
最初のコメントを投稿しよう!