あの春の続き

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「そういう昔ならではの慣習を当たり前みたいに下に流すのどうかと思いますよ」  入社二年目の酒井君の言葉は、あらゆるハラに敏感になっている当社の社員にもしっかりと響いた。だが、時代と彼の心情に即した言葉と仕草が見つからない。  どうとでも取れるような薄ら笑いを浮かべながらも、視界の端にいる三年先輩の係長の方を、ばれないように見やる。こちらの視線の意図を汲み取った係長は、 「じゃあ今年は任意でやりますか! ね、花見の場所取りとかね。本来はもうやりたい人がやりゃいいのよね!」  謎に小さく上向いてそう告げた。  作りなれない明るい声が、漂う空気をより変な色にさせる。ハラに敏感な管理職は、昨年子どもが生まれたばかり。つい最近、半ば脅しのようなパワハラ講習を受けてしまったので、さらにビビり散らかしているのだろう。 「あ、なら自分やりますよ」  係長が一番欲しがっているだろう言葉を発すると、その瞳は「助かった!」と言わんばかりにきらめいた。 「ありがとな、篠崎! そうだお前、砂肝好きだったよな。たんまり持ってくから楽しみにしとけよ!」  砂肝ばっかそんないらねぇよ、と思いつつも。 「はい、楽しみにしてます!」と、俺は笑顔で応えた。    そして今。  俺は、気温一四度という絶秒に涼やかな空気にさらされながら、花見の場所取りをしている。有名どころというわけではないが、都内ということもあり、それなりに良い場所は埋まっているように見えた。  腕時計は一〇時一二分を指し示している。花見が始まるのは一二時からと聞き及んでいるため、二時間弱、たったひとりきりで時間を潰さなければならない。  スマートフォンを開けば、いとも簡単に時間を吸い取られると思うのだが。さすがにそれは、もったいないなと思ってしまう。かといって自分のメンタルを十二分に満たす代替案など持っていないし、思い浮かびもしない。  こういう時、自分は本当につまんねー人間だなと思ってしまう。  くだらんセンチメンタルをスッと横に置き、とりあえずその場にごろんと横になってみた。青々としたビニールシートごしの地面は冷たく、頭からつま先まで均等に、冷たい風が俺の身体を冷やす。 「さびーな」  そう言いながら起き上がると、隣の区画から小さなくしゃみが聞こえてきた。  無意識にそちらを見てしまい、ついうっかり、その人と目が合ってしまう。慌てて逸らすのも失礼かなと思ったので、へらへらと笑って見せた。  するとその人は、俺に倣ってへらへら笑いを試みようとしてくれた。しかし、それはうまくゆかず、ぎこちないままの微笑みを返してくれた。謎の罪悪感に苛まれながらも、小さく会釈をして視線を逸らす。微かな気まずさを感じながらスマホに手を伸ばすと、 「篠崎君?」  その人が俺の名を呼んだ。 「え」  今度は真っすぐ、しっかりと彼女に振り向いてみたが、俺はその人の名が出てこなかった。    ビニールシートの端から一歩分。互いの声がギリ聞き取れる距離感を保ったまま、「岡田さん」はその時分の話をしてくれた。 「高二の途中にね、私、転校してきたんだ」 「あー、そうだっだんすか」 「覚えてなくても無理ないよね。私たち、一度も同じクラスにならなかったし」  彼女は優し気な苦笑いを浮かべながら、一二年前の日常を思い起こすようにゆっくりと瞬きをした。 「高二の二学期で転校とか、ほんと地獄だなって思ってた。当然、クラスの中の関係性とかは出来あがっちゃってるし。その中に入っていくのって、本当に重労働だったんだよね」  彼女が過ごした日々の鮮明さを感じていると、こちらの記憶の輪郭も濃くなっていく気がした。  確かに一時、転校生が来ると話題になっていた気がする。転校初日、その人を見に行こうと誘われた気がするが、断った記憶がある。 「毎分毎秒、最適解を求められてる感じがしてさ。ほんと、学校行くのいやだった」  笑って話してはいるが、その日々を今でもはっきりと思い出せるのだろう。そういう苦々しさは、きっと一生、忘れられないんだろうなと思った。 「だから、篠崎君の連載、ほんと楽しみにしてたんだ」 「連載?」  なんのことを言っているのか一瞬わからなかったが、ぱっと記憶の小窓が開いた感じがした。 「ああ、あれか……」  俺がその「連載」について思い出すと、彼女は嬉しそうに笑いながら頷いた。 「いや、でもあれはさ……俺、長い文章とか書くの普通に無理だったから、苦肉の策っていうか」  新聞部に入ったのだって、週に一回のミーティングという名の雑談に参加すればよかったからだ。他の新聞部員はそんな俺を放っておいてくれたが、顧問だけは許さなかった。 「何かしら書け」というお達しとともに、校内新聞の一コーナーを任されてしまった。二〇〇文字程度のスペースだったが、俺は悩んだ。悩みに悩んだ末、『誰にも言うな! 校内でひとりになれる場所』の連載を始めたのだ。 「ちゃんと場所も覚えてるよ」  彼女はそう言うと、大切にしまっておいた宝物を取り出すように、ひとつひとつの言葉を紡いでいった。 「保健室脇のデッドスペース、軽音楽部が使ってる倉庫の裏、体育館の調光室」 「よく覚えてるね」 「だって、メモってたもん」 「え、そうなの?」 「うん。本当にしんどくなったら、そこに行けばいいって思ってたから」  十数年経っても、俺が書いたあの言葉がこの人の中に残っていた。その事実の希少さ、貴重さを思うと、なんとも言えない気持ちになった。 「あ、でも……途中で学食メニューの紹介に変わっちゃったよね?」  そうだ。その連載は、たったの三回で終了してしまったのだ。 「いや、その調光室でさ、カップルがね……」 「ああ、なるほど」  曖昧に繋げていた言葉の意図を、彼女はしっかりと汲んでくれたようだ。 「あの時俺は、表現の自由の限界を感じたね」 「うん、確かに。それは感じざるを得ないね」  神妙な顔つきで告げた彼女と目が合い、堪らず同時に噴き出した。  満足するまで笑った後で、愛おしい何かを手繰り寄せるように彼女は話をつなげる。 「だからずっとね、篠崎君と話してみたかったんだ。でも、なかなかチャンスがなくて。そのまま卒業しちゃったんだけど、春休みにお花見やろうっていうグループできたじゃない? ラインで」 「ああ、あったあった!」 「何十人も入ってるグループの中で、篠崎君、『場所取りは自分やる』って立候補してたでしょ?」 「ああ、確かにそうだったかも」  高校近くの桜並木でやろうという話になっていたのだが、そこは地元の人たちに人気のスポットだったので、念のため場所取りをしておいた方がいいと思ったのだ。 「それ見てね、篠崎君と話すチャンスは、このお花見しかない! って思ったの。でも、いざ行ってみたらさ、話しかけられなくて」  頭の中で、薄ぼんやりとその図を想像してみる。  確かに、一度も喋ったことがない男子のもとへ単身で向かうのは、なかなかのハードルだっただろう。 「私、そのまま引き返しちゃったんだ。でも、ずっと後悔してた。『ありがとう』って、ちゃんと言えばよかったって」  彼女の言葉に何も返せずにいると、岡田さんはすっと位を正して俺を見た。 「あの時は本当にありがとう」  深々と小さな頭が下げられたのと同時に、艶やかな髪がするりと垂れる。 「いやいや、ちょ、そんなそんな……」  軽口にもならない言葉を吐きながら、その髪の美しさに抗う。 「お、面を上げい」  己の全演技力を総動員してそう告げると、彼女はやっとで顔を上げ笑ってくれた。  そして俺は、その後のことを話した。  ぽつぽつとではあったが、ちゃんと人が集まったこと。隠れてビールを持ってきた奴がいて、そいつのせいでケンカが勃発し、最悪な空気になったこと。そんな中、感情を滅多に表に出さなかった図書委員長の橋本君が突如号泣し、なんとか事態が収束したこと。  橋本君とは、一年に一度くらいの頻度で飲んでることを話した。 「そっか、ちゃんとお花見できてたんだね」 「うん、できてましたよ」  多分、今も。  そんなことを思いながら、俺は頭上に視線を移した。見上げた先には、うざったいぐらいの柔らかなピンクがひしめいている。せいぜい一〇日間ほどの命を、風にあずけて散らしてしまうのはつらくないのかって、ずっと思ってた。  でもなんとなく、今年の桜は例年のそれより綺麗に見えた。  よし、この流れだったら確実にいける。  そう自分自身に確認を入れた後で、俺は彼女に向き直った。 「あのさ、SNSなんかやってる?」そう尋ねようとした時、土を踏みしめる音がこちらめがけてやって来た。その足音の重さに、第六感が機敏に反応する。その音に振り向くと、乳幼児を抱えた男性が俺をしっかりと見下ろしていた。  弁明の必要性は絶対的にないのだが、それに類した言葉を探してしまう自分がもどかしい。そして彼は、俺に向かって小さく会釈をした。すると、彼に抱えられていた乳幼児がくるりと振り向く。  俺の横の岡田さんを捉えると、やわやわとしたその手を目一杯に伸ばす。岡田さんはその手に応えるように、男性から乳幼児を預かった。 「篠崎君、この人、私の旦那。で、こっちが息子」  うん、でしょうね。  わかりきっていたことを認識しつつ、俺は旦那さんの方を改めて見た。 「初めまして、篠崎といいます。あの、会社の花見で場所取りしてまして」 「あ、はい……初めまして」  厳格そうな性格がにじみ出てくるような、しっかりとしたお辞儀を彼は返してくれた。 「高校の同級生なの。偶然会って」 「ああ、そうだったんですね……」 「はい……」  空中に漂う何かを感じながらも無駄に会釈を繰り返していると、「篠崎さんもご一緒にいかがですか。会社の方がいらっしゃるまで、飲みましょうよ」と旦那さんが誘ってくれた。 「あ、ええと……」  捻りだしようもない断る理由を考えながら曖昧に頷いていると、 「おはようございまーす」  思わぬ救世主が現れてくれた。 「酒井くん! おはよう!」  彼が来てくれたことがあまりにも嬉しくて、ついうっかり、でかすぎる声を発してしまう。案の定、彼はすっと身体を引きながら「なんすか」と言った。 「あれ、お知り合いすか?」  酒井君は無遠慮に岡田さんファミリーを見やる。おいおいと項垂れそうになりながらも、高校の同級生とそのご家族だとさっくり説明した。 「へー」  いや、もっとちゃんと興味持ってよ。  ……と思いつつも、岡田さんファミリーの団欒を邪魔しないよう、自然と彼らから離れる策を頭の中で講じていたのだが。 「じゃあ、一緒に飲みましょうよ。篠崎さんの高校時代とか、なんか面白そう」  彼の奔放な提案により、逃げ道は完全に断たれた。 「んじゃ、とりあえず乾杯、乾杯しましょ」  言いながらも彼は、持っていたビニール袋からビールやらチューハイやらを取り出していく。ぎこちなさがやんわりと香る乾杯をした後で、「ね、なんで来てくれたの」と、酒井君に尋ねた。すると彼は、喉を鳴らしてレモンチューハイを胃に注ぐ。ぷはっとおっさんみたいな仕草をした後、「なんか早く起きれたんで」と、言った。 「そうですか」  まぁ、理由なんてなんだっていいけど。  時計はいつの間にか一〇時四七分を指していて、吹いてくる風は、さっきよりも温い感じがする。 「よかったら食べて」  岡田さんがこちらに差し出してくれたのは、海苔が巻かれたおにぎり。 「いただきます」  ばくっとそれにかぶりつくと、爽やかな酸味が口いっぱいに広がっていった。
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