二者択一

2/5

3人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 里穂とは入社した際の同期として出会ったのが馴れ初めだった。  当初は、職場の同僚、仕事終わりの飲み仲間としか思っていなかった。瓜実顔の黒髪美人ではあるものの、女性として見たことなど一度もなかった。  ところが、業務の中で里穂が邁進する姿勢にどんどん惹かれていった。そして、抑えきれなくなった想いを告白すると、彼女も彼に対して同じ気持ちを抱いていたことがわかった。それで付き合うことになったのだ。  瑛斗と里穂が入社して四年目、二十六歳の時、二人は結婚した。それを機に彼女は寿退社して専業主婦になった。  瑛斗は友人や同僚から羨望の眼差しを向けられた。大企業に勤めながら高収入を得て、美人な妻を貰ったからだった。  このままずっと里穂と一緒にいたい、彼はそう思っていた。  仕事から家に帰れば、常に笑顔で迎えてくれて、温かい食事と風呂を用意してくれた。仕事でどんなに辛いことがあっても、彼女の笑顔があれば心が安らいだ。  いつかは子供も授かって家族を作りたい、と望んでいた。特に里穂のほうがその願望を強く持っていて、一姫二太郎がいいと言っていた。瑛斗も「そうだね。いつかは家族四人で、もっと幸せになろうね」と同意した。  仕事も私生活もすべてが虹色に輝いていた。何もかもが順風満帆だった。  しかし、それは永遠に続かなかった。突如として、夫婦の生活は漆黒の色に変わってしまった。  結婚してから三ヶ月が経ったある日、里穂が交通事故に遭ったのだ。  医者によると、自力で喋ることも体を動かすこともできない、とのことだった。事故の影響によって、彼女は電池を抜かれた人形のようになってしまったのだ。  帰宅すると、里穂はいつも暗闇の寝室にいた。いや、そこから離れられなくなった、と言う方が正確だった。  瑛斗が呼びかけても口を開かず、ただ一点を見つめているだけ。当然、彼が楽しみにしていた料理を作ることは一切できなくなり、その他の掃除や洗濯などの家事全般も手を付けられなくなった。やむを得ず、それらすべては彼が担当することになった。  瑛斗は何とかして元の彼女を取り戻そうとして、助ける手段を模索した。  何か彼女を治す方法はないのか、と医者に何度も駆け寄ったりもした。しかし、「そんなものはない。もう諦めなさい」と突き返された。  それでも、彼は絶対に諦めなかった。いつか彼女が動き、喋ってくれると信じていたからだ。  だが、やはり結果は変わらなかった。幾度となくこちらが声をかけても、里穂は表情も姿勢も変えることなく、一日中、家にいるだけだった。  さすがにこのままの状態では健康に害を及ぼすと恐れて、休みの日には、家の外に連れ出し陽の光を浴びさせた。そんな時は、心なしか彼女の表情が和らいだように見えた。  そうした生活が、今日に至るまで七年続いた。もはや夫婦の関係は壊れていた。  家族や友人、同僚、周りの人間全員に「そんな生活はやめたほうがいい。早く別の人を見つけた方がいい」と言われた。  さらに、里穂の父親も口を揃えた。「君はまだ若い。男としての魅力だって十分にある。もう娘のことは忘れて、他の女性を見つけてくれ。どうか自分の人生を生きてくれ」と。  でも、彼は断固として拒否した。たとえ妻の精神がおかしくなっても、病気になっても、愛し続けると誓ったからだ。  とはいえ、異常な生活は瑛斗の心と体を明らかに疲弊させていた。仕事が終わった後は、真っ先に家へ帰り妻の献身に務めた。一日中、働きっぱなしと言えた。  こんなことをして果たして意味があるのだろうか。以前のように妻は元に戻ってくれるのだろうか。もしかすると、すべてが水の泡になるのではないか。  日に日に、ネガティブな感情だけが瑛斗の胸に積み重なっていった。まるで一寸先も見えない暗闇の世界で生きているようだった。  そのように身も精神も弱っている中、真央と出会ってしまったのだ。彼女の笑顔と天使爛漫な人柄は、瑛斗の心に光を照らしてくれた。忘れかけていた女性との付き合いの楽しさ、肌のぬりもりを思い出させてくれた。  真央と不倫関係に陥った後、彼女には隠し事をしたくない、と瑛斗は思うようになった。なので、正直に妻のことを打ち明けた。  それでも彼女は「私は瑛斗さんのことが好き。私だけを見てくれるように、これからも愛し続ける」と言ってくれた。普通なら、不貞行為を働いている瑛斗を突き放してもおかしくないのに、受け止めてくれたのだ。  そして、あろうことか交際関係を口外しないよう彼女に懇願すると、忠実に守ってくれたのだ。  瑛斗の気持ちのベクトルは真央に向いていた。  ただ、妻のことを本気で愛せなくなったわけではなかった。真央とひと時を過ごした後は、必ず里穂の顔が頭に浮かんできて、早く会いたいという感情が胸を染めるのだ。それは、まだ妻のことを気にかけている何よりの証拠と言えた。  それならば、真央との関係を断ち切らなければいけないはずである。本来、既婚者が他の女性に手を出すことなど絶対に許されないからだ。だが、どうしても真央を手放すことは出来なかった。  そこで瑛斗は気がついた。二人の女性を本気で愛しているのだと。  それは、里穂と真央を悲しませていることを示していた。また、不倫という秘密を絶対に公にされたくないのは、これまで彼が築き上げた富や名声を失いたくないからだった。総じて、最低で卑怯な男であると彼は己を呪った。  何にせよ、最終的にはどちらかの女性を選ばなければいけない。煮え切らない瑛斗にそれができるだろうか。このまま、ずるずると今の関係が続くかもしれない。出口の見えない迷路に迷い込んでいるようだった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加