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そうこうしているうちに、業務が終了した。十九時を少し過ぎた頃だった。
瑛斗の会社において、毎週の金曜日は残業をしてはいけない規定になっている。ちょうどこの日は、それに該当する日だった。
そのため、「お疲れ様でした」という声が飛び交い、次々と社員はオフィスをあとにした。
真央も同僚とともに出ていった。先に密会の場所に向かってもらい、後から瑛斗が合流する予定になっている。いつもこの形だ。二人でいるところを他の社員に目撃されないためだった。
彼女がいなくなった十五分後に瑛斗は出発した。行先は、これまで何度も利用したオフィス近くにある居酒屋だ。
個室で待っていた真央が白い歯を覗かせて迎えてくれた。
二人ともビールを注文した。ジョッキを接触させた時、乾いた音が発生した。
彼女は少しだけ喉に流し込んだ。すると、すぐに頬が赤くなり、目尻がとろんと下がった。本人によれば、お酒を飲むことは好きらしいが、アルコールに弱いのだという。
男の欲情を掻き立てる色が浮かんでいる。彼女の表情を目にして、瑛斗は心臓の拍動が速まるのを感じた。
約二時間、食事を楽しんだ。それから、今夜はどうするか、という話題になった。一夜を共に過ごすかどうか、という意味が込められている。
瑛斗は思考を巡らせた。正直なところ、まだ真央と一緒にいたいと思った。二人で快楽に溺れる時間を共有したいのだ。このまま帰っても、普段と同じく陰鬱な空間で里穂が待っているだけだからだ。
だが、この生活をかれこれ五ヶ月ほど続けている。仕事で帰宅することができなかった、と里穂に伝えてはいるが、以前よりも朝帰りが増えていることを鑑みれば、さすがに不倫を疑われてもおかしくない。いや、今の彼女が不倫を疑えるような状態ではないかもしれない。
とはいっても、妻がいる以上、不倫の事実がばれることは絶対に避けたい。細心の注意を払ってはいるが、いつかは公になる恐れだってある。
妻の友人や知り合いが、別の女性と親しくしている瑛斗を目撃したら一貫の終わりだ。これまで築き上げてきたものをすべて失うかもしれない。いつどこで誰に見られているかはわからない。不倫という絶対にばれてはいけない秘密を抱える以上、感情的ではなく理性的になる必要がある。
そのように考えた後、瑛斗は口を開いた。「今日はこれで終わりにしようか」
えっ、と真央は声を漏らし、眉を上げた。「もう帰るんですか? どうしてですか?」
「仕事で疲れてしまったから早く帰りたいんだ。もう若くはないから体力をつけないとな」瑛斗は本音を悟られぬように笑みを作った。
しかし、彼の言葉を聞いた真央は、一拍置いてからこう発言した。「奥さんですか?」
完全に見透かされていることに瑛斗はどきりとした。女の勘というものは恐ろしい。切り返しの言葉が見つからなかった。
口を閉ざしている彼を見て、彼女は「やっぱり」と続けた。「奥さんに疑われているとでも思っているんですか? 瑛斗さんが他の女性と会っているかもしれないって」
「いや、今のところそれはないと思ってる。ただ、俺たちの関係がばれないためにも、二人でいる時間をあまり増やしすぎない方がいいと思っただけだ」
ふうん、と真央は鼻を鳴らした。納得していない様子だ。
「頼む、わかってくれ」申し訳なさそうに瑛斗は頭を下げた。
「わかりました」真央は頷いた。「でも、言いたいことがあるんですけど聞いてもらえますか?」
「いいよ。何だ?」
「私、瑛斗さんのことが好きです。だから好きな人には、幸せな人生を送ってほしいと思っています」
彼女の発言によって彼の胸は熱くなった。「十分幸せだよ。そうやって気持ちを言葉にしてくれるほど、俺のことを想ってくれているからな。今、こうして真央と一緒にいる時間も本当に嬉しいよ」
「わかってます」でも、と続けた時、彼女の目に悲しい光が宿った。「瑛斗さんて、明らかに薄幸な雰囲気を持っているんです」
彼は首を傾げた。「そうかな」
「そうですよ。私を含め他の人も気づいています。ただ、私だけはその原因がわかります。それは奥さんです。これまでの話を聞く限り、相当大変な生活を送っています。なのに、ずっと奥さんのもとから離れないのは、私よりも奥さんのことを愛しているからですよね?」
「それは……」瑛斗は唇を噛んだ。彼女の機嫌を損ねないような回答をしなければいけない、と思い言葉を選んだ。
そして、一回咳払いをしてから彼女の目をまっすぐに見つめた。「怒らないで聞いてほしいんだけど、俺は確かに妻のことを愛している。けど、それと同じくらい君のことも好きなんだ」
「だったら、私を選んでください。奥さんのことを忘れろとは言わないので。私なら瑛斗さんのことを支えられますし、一緒になればお互いきっと幸せになれるはずです。私の方が奥さんよりも瑛斗さんのことを愛しています」
「ありがとう。必ず答えを出すからもう少し待ってほしい」
「わかりました。待ってます」
結局、この日は解散することになった。
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