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瑛斗は東京駅から山手線を使って品川駅で降りた。そこから目と鼻の先にあるタワーマンションが彼の住まいだ。
エレベーターに乗り込んで十階まで上がり、フロアの一番端へ向かった。
扉を開けて玄関に入ったのと同時に電球が光を灯した。
目の前に伸びる大理石の廊下に向かって「ただいま」と彼は放った。もしかすると、里穂が出迎えてくれるかもしれないと期待した。だが、返事はなかった。
それもそうだよな、と思いながら靴を脱ぎ、室内用のスリッパに履き替えた。
廊下の先にあるリビングまで足を進めた。室内に暗がりが広がっていたので、スイッチを押した。直後、白い光が空間に放たれた。
手前にダイニングキッチンとテーブル、奥にソファとテレビが置かれている。この空間を妻と共有していたのはいつまでだっただろうか。とてつもなく遠い過去のような気がした。
瑛斗はリビング横の寝室に入った。すると、里穂が視界に飛び込んできだ。
「ただいま里穂。帰ったよ」もう一度、呼びかけた。
しかし、やはり彼女は口を開かなかった。何度、このやり取りをしているかわからない。おそらく明日もするに違いない。
彼はスーツを脱ぎ、スウェットに着替えた。リビングに戻ってグラスに水を注ぎ、それを手にしてソファに腰を下ろした。そして、口元に運んでゆっくりと喉に流し込んだ。
はあ、と深く息を吐き、背もたれに寄り掛かった。呆然と白い天井を見続けた。静寂の中、時計の秒針が動く音だけが耳に入ってくる。
数分間そうした後、眠気が襲ってきた。速やかにシャワーを浴びて、髪を乾かし、歯を磨いた。
就寝の準備が完了すると、寝室のベッドに横になった。彼の隣には里穂がいる。
彼は妻に顔を向けて、改めて声をかけた。「なあ里穂、明日は土曜日だし何処かに出かけないか。天気もいいみたいなんだ」
妻は無言のままだ。表情も体も動く気配が一切ない。
それでも、彼はさらに続けた。「そうだ、近くにあるいつもの公園に行こうか。あそこは里穂も好きだろ。しばらく行ってなかったし、ベンチに座って一緒にコーヒーでも飲もう」
瑛斗の呼びかけに、依然として里穂は反応を示さなかった。
「やっぱり何も言ってくれないよな。でも、公園に行くことは決定だからな」瑛斗は布団をかぶり、電気を消した。「それじゃあ、おやすみ」
暗黒と沈黙が寝室を支配した。
真央との一件で、精神的にも疲弊していたことから、瑛斗の意識が次第に遠のいていく。すぐにでも夢の世界に行ってしまいそうだった。
だが、その直前だった。横から何かの音が耳に入った。そこで彼はおもむろに瞼を上げた。
すると、再び鼓膜が刺激された。しかも、さっきより鮮明だ。それに、どこかで聞いたことがあるような気がした。加えて、懐かしさも感じた。
「……と。……いと。……えいと。瑛斗起きて」
次第に大きくなっていく音は、彼に向けられたものであることがわかった。
瑛斗は、はっとして上体を起こした。ベッドの横に置かれた電灯をつけた。室内がぼんやりとした橙色の光で包まれた。
今しがた彼の隣にいたはずの里穂が目の前に立っていた。彼女と視線が重なった。
「里穂……」彼は呟いた。
「久しぶり瑛斗」彼女は微笑した。目がアーモンド形になっている。
七年ぶりに表情が砕けているところ、自分の足で立っているところを見れて瑛斗の目頭は熱くなった。また、腹の底から熱さが沸き起こった。
「ようやく元に戻ったんだな。この日をずっと待ってたんだぞ」言いようのない感動によって、声が震えた。
「うん。心配かけてごめんね。突然、私が事故に遭ったせいで、びっくりしたよね。あと、その後の生活が一変したことも。本当は私も瑛斗と話がしたかったの。けど、事故の影響でどうしてもそれができなかったの」
彼は大きく首を横に振った。「いいよ。いいんだ。こうしてまた話せるんだから」
「ありがとう。どうしても話したいことがあるから、時間をくれない?」
瑛斗は頷いた。「何だ?」
「瑛斗さ……。私以外に好きな人いるでしょ」
彼女の言葉に「えっ」と瑛斗は声を上げた。「いや……。それは……」鋭い刃物で胸を貫かれた気がした。
「隠そうとしなくてもいいよ。私は知っているから。同じ会社にいる田村真央さんでしょ。あと、彼女との関係も認識してる」
里穂から次々と投げかけられる指摘に瑛斗は口をぽかんと開けたままだった。
事故に遭遇して以来、ほとんど家から出たことのない彼女がどうして真央のことを知っているのだろうか。それに真央との関係や真央に対する気持ちも、どうして見透かしているのだろうか。理解ができなかった。
「なんでそのことを……」
「私がずっと家にいるから気づかないとでも思った? 実はね、私はずっとそばにいて瑛斗のことを見ていたんだよ。だから、あなたの行動はすべてお見通しだったの」
「まさか、ありえない。里穂はずっと家にいたじゃないか。俺のそばにいたなんてまったく気づかなかったぞ。俺をつけていたのか?」
瑛斗は早口で言った。その時、彼は自分が行ってきたことを棚に上げて、なんの罪もない里穂を責めているような気がした。悪事を働いていたのは彼の方なのに、解せない状況だと感じた。そこで、すかさず言いたいことを翻した。
「いや、そうじゃないよな。俺が悪いんだ。君がいながら他の女性と不倫をしていたんだ。本当にごめん」瑛斗は頭を下げた。
「顔を上げて瑛斗」
ゆっくりと彼は里穂に視線を戻した。
意外なことに彼女は微笑んだままでいる。憤るはずだと予想していたが、怒りの色は一切見られなかった。
「私はね、あなたを責めるつもりも、怒るつもりもないの。ただ、お願いを受け入れてほしだけなの」
彼は眉を八の字にした。「どういうことだ?」
里穂は真剣な眼差しで見つめてきて、一拍置いてから続けた。「真央さんと付き合ってほしいの。そして、いずれは彼女と結婚してほしいの」
瑛斗は大きく目を見開いた。「何を言ってるんだ。君は俺の妻なんだぞ。なのに、他の女性を選べって言うのか?」
「そうよ」
「本気で言っているのか?」
「もちろん本気よ。私が冗談でこんなことを言わないってことは、あなたが一番わかっているでしょ」
「そうだけど……。でも、どうしてそんなことを言うんだよ?」
「だって……」里穂は視線を斜め下に移した。悲しい色が表情に浮かんでいる。そして、少し間を置いてから続けた。「とっくに夫婦関係が終わっているから」
「馬鹿なことを言うな。俺達は夫婦のままだ」声が大きくなった。
彼女はかぶりを振った。「私達は夫婦じゃない。七年前に私が事故に遭ったあの日から。あなたはそれに気づいていないだけ。いや、それとも気づかないようにしているのかしら」
今度は彼の方が首を大きく横に振った「終わってなんかいない。俺たちの間には七年のギャップがあるけれど、君はこうして元に戻ったじゃないか。こんなことを言うのはおかしいけど、これから二人でまた一緒に暮らすんだ。やっぱり俺には真央よりも里穂が必要なんだ」
「それはできない。瑛斗とこうして会って話していられるのは今だけ。もうあなたの前に現れることもない。今日が最後の日なの。だから真央さんと結ばれてほしいの。実際、今のあなたは私よりも彼女のことを愛してる。私にはわかるの」
「そんなこと……」瑛斗は項垂れた。
里穂の言うことがどうしても理解ができない。夫婦なのにどうして他の女性を選べと言うのだろうか。また、二度と会うことができないとはどういう意味なのだろうか。
久しぶりのためか、彼女との会話がかみ合わず、こちらが何を言っても納得する回答が返ってこない。
彼が頭を悩ませている時、「私はね」と里穂が声を発した。
瑛斗は改めて彼女に顔を向けた。
「好きな人に幸せになってほしいと思っているだけなの。真央さんだったら、瑛斗のことを幸せにしてくれると思う。努力家で真面目で仕事熱心で、何より私に負けないくらいあなたのことを愛しているから」
「そんなこと、どうしてわかるんだ。君は真央と会ったことも話したことがないのに」
「さっきも言ったけど、私はずっとあなたのことを見ていたの。だから、あなたと相思相愛の女性がどんな人なのかも気になって常に目を向けていたの。それでわかったの」里穂は淀みなく言った。
彼は里穂の言葉を受け止めて、ようやく彼女が真剣であることを理解した。
とはいえ、彼女の考えについて、瑛斗はまだ得心を得られなかった。
これまで里穂がいながら真央と不倫をしてきた。ただ、それは里穂の言う通り体だけの関係ではなく、真央の心とも通じ合う間柄だった。
しかし、里穂がなんと言おうと、彼女が目の前にいる以上、絶対に放したくないという思いが勢いよく強まっている。
「あなたが幸せになってくれることが私の願いなの。今の状況を見る限り、真央さんと結ばれることが最善だと思う」
里穂は頑なに主張を変えない。しかし、瞳にうっすらと涙がにじんでいるように見えた。
でもね、と彼女は続けた。「これだけはわかっていてほしいの。瑛斗がどこで何をしていても、私はずっとあなたのことを見ているし、ずっとあなたのことを愛しているから」
「だったら俺と―」
「それじゃあ、そろそろ時間だからもう終わるね」里穂は彼が話している途中に言葉を重ねた。「今までこんな私を愛してくれて本当にありがとう。嬉しかったよ。ずっとずっと瑛斗のことが大好き。さようなら」そう言うと、頬に涙が伝っていた。
彼女の表情を目にして、瑛斗の胸は締め付けられた。二度と会えないという彼女の発言が脳裏に張り付いているので、何とかして引き留めるための言葉を投げたい。そして、どこにも行かせないために彼女を抱きしめたい。だが、心とは裏腹に体がどうしても言うことをきかなかった。
そう思っていると、途端に眠気が襲ってきた。視界がぼやけていき、彼女の姿がかすんでいく。涙を流して微笑みかけてくる里穂の顔を見ながら、瑛斗の意識は沈んでいった。
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