二者択一

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 白で統一された広い空間に、数多くの机が規則正しく並んでいる。そこでは、スーツを身に着けた男女がパソコンを凝視しながら、せわしなく手を動かしていた。そのせいで、かたかた、という音がいたるところで発生していた。  そうした環境の中で、和田瑛斗(わだえいと)もキーボードを叩いていた。次週、商談をする予定の先方に、メールを書いているのだ。  一通り文章を書いた後、ディスプレイに視線を配らせた。誤字脱字がないか、適切な日本語が使用されているか、資料は添付されているかなどについて確認するためだ。  こうした業務を含め、これまで愚直に仕事に取り組み、数多くの業績を上げてきた。おかげで、係長に抜擢された。入社してから今年で十年目、三十三歳という若さでの昇進は異例の早さだった。  そんなことから、どんな仕事もこなすことができる、という自信と根拠を瑛斗は持っていた。ただ、決して自惚れているわけではなかった。自惚れは油断へと変わり失敗を生み出してしまうからだ。  些細なことでも失態を犯してしまった場合、会社の大きな損失に繋がってしまうことがある。なので、危険な芽を摘むために、彼はどんな業務に対しても最低三回は必ず確認を取るように努めている。仕事を行う上で失敗しないための当然とも言える作業だった。  メールに問題がないことを確認すると、瑛斗は送信ボタンをクリックした。  彼は息を吐き、椅子の背もたれに体重をかけた。一仕事を終えた際に出る癖だ。  視線の先にある針時計は十四時を少し過ぎた頃を示していた。  両手を挙げて軽いストレッチをしてから体勢をもとに戻し、オフィスデスクに座る社員を見回した。  その時、瑛斗の部下である男性社員が腰を上げた。鞄に次々と資料を収めている。その後、「お疲れ様です。行ってきます」と快活な声を上げて、大股でエレベーターホールに向かった。  周りにいた社員は、「行ってらっしゃい」と男性社員の背中に声を投げた。  平日はいつもこの景色を眺めることになる。  再び、瑛斗はオフィスにいる社員に視線を戻した。  その中の一人に彼の目が留まった。田村真央(たむらまお)だ。新卒でこの会社に入社してきて、今年で三年目になる。年齢は二十五歳だ。栗色のショートカットに、丸い輪郭、丸い目鼻という顔立ちをしている。現代の言葉で形容するならば、たぬき顔に分類されるだろう。いかにも男受けしそうな見た目だ。  実際、これまで部下の男性社員と飲みに行った際、必ずと言っていいほど彼女が話題に挙がっていた。可愛らしい外見に加え、どんな人間に対しても簡単に懐に入ってしまうほど愛嬌で溢れたキャラクターであるため無理もない。       部下曰く、社員の何人かは彼女のことを本気で狙っているらしい。だが、眉唾ではあるものの、真央にはすでに彼氏がいるとのことだった。一流企業に務めている同い年の背の高いイケメンが彼氏、という噂が広がっていた。  瑛斗が真央を見つめていると、不意に目が合った。彼女は目尻を下げて、にこりと微笑みかけてきた。その表情を見た時、彼の胸は熱を帯びた。しかし、そんな感情を彼女に悟られぬよう、彼はおもむろに顔をディスプレイに戻した。  数秒後、瑛斗のスマートフォンから電子音が発せられた。目をやるとメッセージが届いていた。相手は真央で、次の内容だった。 『瑛斗さん 今日、楽しみにしています。また一緒に熱い夜を過ごしたいです。』  彼女の文章に彼は唾を飲み込んだ。そして、すぐに画面をタップして、こう返した。 『俺もだよ。でも、仕事中に連絡をするのは控えろ。誰に見られるかわからないだろ。』  間もなく真央から返信がきた。了解、とでも言うように、熊が敬礼をしているスタンプが送られていた。  やれやれ、と思いながら瑛斗は再び仕事に取りかかった。今夜のことに胸を弾ませて、早急に残りの業務を完遂した。いつでも退勤できる状態だ。そのため定刻を迎えるまでの間、彼は何度も時計に視線を向けた。この日の夜、真央と会う予定だったからだ。無論、二人きりでだ。  彼女とこうした関係になるとは、まったく予想していなかった。どこにでもいる上司と部下、それだけのはずだった。  これまでの真央との関りについて、瑛斗は記憶を辿った。  彼が務める商社は、国内でも大手の有名企業だ。そのため、毎年行われる採用試験の応募者はかなりの数に及ぶ。特に、真央が受けた年は過去に類を見ないほどだった。約四千人はいたはずである。そこから篩に掛けて百名の若き新参者を迎えた。  そんな狭き門をくぐった真央は営業職での採用だったため、瑛斗が管轄する営業部に配属された。  当初、彼女の指導をするのに彼は手を焼いた。新人とはいえ、まったく仕事ができなかったからである。ビジネスメールが書けない、やるべき仕事の期日を守れないなど、他にも挙げればきりがなかった。  彼女のような人間がなぜ入社できたのだろう、と瑛斗は疑問を持った。中堅にも及ばない大学出身で、筆記試験の成績も芳しくなかった。本来ならば、書類選考もしくは一次選考の時点で落とされていたはずである。  にもかかわらず、彼女がこの会社にいる理由は外見と愛嬌によるものと思われた。たしかにそれらは営業の仕事をする上で持っておくべき能力ではあるものの、それが秀でているだけで彼の会社に入れるほど甘くはないはずだった。実際、営業部にいる殆どの社員は外向的であることに加えて一流大学を卒業しているのだ。  しかし、人事部の社員を見ていると、何となく合点がいった。若い女性に対して、鼻の下を伸ばしそうな高齢の男性が占めていたのだ。おそらく、真央の見た目の良さに惹かれたのだろう。つまり、彼女は顔で採用されたに違いない、と彼は踏んでいた。  また、そういうことから真央に対して高をくくっていた。不適切な手順によって分不相応の会社に入るような奴はどうせすぐに辞めるのが関の山だ、と。一流企業において業績を上げられない社員は上層部に詰められ、やがてはそのプレッシャーに耐えられなくなるからだ。そうしてドロップアウトしていく人間を何人も目にしていた。  それでも、瑛斗は部下を受け持った以上、教育を施さないわけにはかなかった。最低限この会社で使えるくらいの人材にしようとして、手塩にかけて彼女を育てた。  すると、予想だにしないことが起こった。彼女は何度も仕事で失敗をするのだが、熱心に教えを乞うて会社のために全力で働く姿勢を見せてくれたのだ。そのため、彼はそれに応えようとして指導により力を注いだ。  そうして、仕事のいろはを教える機会が多くなり、自然と時間を共有することが増えていった。職場で会うだけでなく、二人で飲みにも行った。主に、真央が投げかけてくる仕事の質問に対して、アドバイスを返す形だった。具体的には、彼がこれまでのキャリアで培った考えを惜しみなく伝えた。  一例を挙げると、以下のような内容だった。  営業職に就く人間は、二種類のタイプに分けられる。顧客に対して商品を論理的に説明して契約を取るタイプと、即座に仲を深める人柄、巧みな話術、勢いによって顧客の情を動かして契約を取るタイプだ。  真央の場合、明らかに後者だった。彼は、「自分の強みを最大限に活かせ」と口酸っぱく言い続けた。  そのかいもあってか、やがて彼女は営業部でトップの成績を納めるほどに成長した。入社したての頃よりも社会人としての風格や自信も溢れてきた。いい意味で期待を裏切ってくれたことに驚きと喜びを瑛斗は感じた。  ある日、いつものように飲みに誘った。東京駅の八重洲口の近くにある居酒屋だった。職場からは歩いて十五分程度で着く。  和をコンセプトにした個室のみしかなく、微量な橙色の光の中で食事を摂ることができる。また、静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。そこが、普段彼らが落ち合う場所だった。  これまでは、瑛斗が仕事の術について、真央に助言するために会っていたのが主な理由だった。しかし、その日に限っては訳が違った。彼と彼女が担当する大型案件において、契約を取った祝いを二人であげるためだった。  喜びのあまり、お互いの酒のペースが早くなり酔いが早くまわった。そのため、仕事の話よりもプライベートに深く切り込む話題が多くなった。  瑛斗は「彼氏はいるのか?」と真央に訊いた。興味本意のつもりだった。  いません、と彼女は返してきた。  彼は大きく目を見開いた。男の視線を一身に集めるほどの美貌を持っているのにもかかわらず、恋人がいないということにギャップを感じたからだ。  そこで、さらに疑問を吐露してみた。「意外だな。彼氏を作る気はあるのか?」 「ありますよ」 「どんなタイプが好きなんだ?」 「仕事ができて頼りがいのある年上の男性ですね」 「へえ。そういう人は身近にいるのか?」  彼女は小さく頷いた。 「その人のこと好きなのか?」 「はい」彼女は少し頬を緩ませた。 「君みたいな女性に好かれるなんて、よっぽどいい男なんだろうな」瑛斗はハイボールが入ったグラスを口元に運んだ。氷同士が接触し、からからと音が鳴った。「もちろん両思いなんだろ?」 「どうですかね。私のことを好きであるとは思うんですけど、女としては見てくれていないかもしれません」  まさか、と彼は言った。「君のことを女としてみない男なんていないと思うぞ。うちの男性社員の間では、常に君の話題で持ちきりなんだ」 「そうですか。じゃあ、瑛斗さんは私のことを女として見れますか?」  突然の質問に、彼はゆっくりと真央に顔を向けた。彼女と目が合った。瞳孔が開き、吸い込まれそうな瞳をしていた。また、心なしか先ほどよりも頬が赤くなっているように見えた。アルコールだけの影響ではないと思われた。  そんな彼女を目の当たりにした瑛斗は、心臓が跳ね上がる感覚に襲われた。だが、気丈に振る舞い対応した。 「もちろんだ」  彼女は目を細めた。「本当ですか?」口調に訝しさが含まれていた。 「本当だよ」 「ありがとうございます。瑛斗さんにそんなこと言ってもらえるなんて凄く嬉しいです」  彼女が微笑した後、二人の間で沈黙が流れた。言いようのない気まずい空気が漂っている。  その中で口火を切ったのは真央だった。 「ねえ、瑛斗さん。いい加減、気づいてもらえませんか?」 「気づいているよ。君の好きな人は俺なんだろ」 「そうです。瑛斗さんは私のことをどう思ってるんですか?」 「俺も君のことが好きだ。ただ可愛いだけではなく、努力家で仕事にひたむきに取り組む姿勢に惹かれている」 「やだぁ、照れちゃう」真央は両手で頬を覆った。「両思いなんですね。私たち」  ああ、と瑛斗は顎を引いた。「明日、何か予定入っているか?」 「何もありません」 「じゃあ、今日は一緒にいよう」 「はい、喜んで」  それから二人は居酒屋をあとにして、近場のホテルに向かった。もちろん、情事を行うためだ。  部屋に入った途端、互いを求め合うようにして貪りあった。それは人間であることを忘れて、まるで獣のようだった。  男の目を釘付けにするような美女と相思相愛で、しかも体を重ね合わせていることから瑛斗は愉悦に浸った。  その日を皮切りに、何度も彼女と交わった。  しかし、この関係は、家族や友人さらには同僚にも、絶対に誰にも言うことのできない秘密だった。瑛斗には里穂という妻がいるからだ。彼は不倫をしているのだ。
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