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桜花火
「そりゃ、がっかりするやろうなぁ……」
銀次は落胆する老若男女を目の前にし、ひどく同情した。
満開の桜を楽しみに、名所で知られる都市公園を訪れた花見客。予報もなく襲った金曜の夜の悪天候は、無惨なほどに桜景色を奪い去っていた。
繊細な四季の移ろいが人々を魅了する日本。地球温暖化の影響だろうか、近年の気候の異様な変化により、季節の風物詩を味わう機会は減っていった。花見もそのひとつだ。
ここ数年、まともに花見を楽しめた年はない――
ブルーシートを抱えた社会人のグループ。リュックサックを背負った家族連れ。気品漂う老夫婦。酒でも飲んで盛り上がる予定だったのだろう、男女が入り混じった若者の集団。がらんどうとした桜の木と、散り散りになった足元の花びらを交互に見やり、誰もが一様にため息をついている。
桜そのものは立派に咲き誇っているのに。花びらが醸し出す色彩は、以前よりもその美しさを増しているようにさえ感じるのに。これほどに残念なことはない。
「よし、いっちょやったるか」
そう意気込んだ銀次は、両手を大きく広げ、少し背を反らせると、大きく息を吸い込みはじめた。深呼吸のような生半可な吸い込み方じゃない。周囲の空気を飲み込み切ってしまうほどに大きく深く長く。その胸はみるみる肥大化していき、銀次をふた周りほど大きくさせた。
限界まで息を吸い込み切ると、手の平を膝に乗せ、中腰の姿勢に。次の瞬間、破裂寸前の風船のように頬を膨らませたかと思うと、すぼめた口先から地面に向かって豪快に息を吹き出した。
散り終え、沈黙していた花屑たちに、銀次の凄まじい勢いの息が吹きかかる。
「えっ?」
生気を取り戻し、ブワッと舞い上がりはじめた花びらに気づき、花見客たちは色めき立った。
大半の花びらが浮かび上がったのを見た銀次は、龍のように首を捻り、それを空に向かって吹き上げた。
「花火だ……」
超常現象とも思える光景を目の当たりにし、花見客のひとりがポツリと呟いた。
枝々に散り残った花たちも、銀次の吹く息に誘われ、我先にと空へ舞い上がっていく。
澄み渡る青空には花霞。銀次はそれを匠の技で成形していく。気づけば空には大輪の桜花火が打ち上がっていた。
「たまやー」
「かぎやーー」
頭上はるか高く、見事に咲いた花に向けて、季節外れの掛け声が飛び交う。
打ち上がった桜花火は、やがて零れ桜に。ひらひらと舞う花びらを眺めながら、笑顔を取り戻した花見客。奇跡のような瞬間を少しでも長く味わおうと、押し合いへし合い花見の準備をはじめ、気づけば都市公園は賑わいに包まれていた。
銀次は希代の花火職人。そんな職人でさえ、今では活躍の場を奪われ、食うに困っていた。春と同じく、夏にも異常気象は多く見られ、それにより花火大会が中止に追い込まれることが多くなったからだ。
そこで思いついたのが、桜の花火だった。
花火にせよ、花見にせよ、みんなに笑顔を届けられることに違いはない。彼はその役目を担うことに誇りを持っていた。
桜花火によって活気を取り戻した都市公園を背に、大仕事を終えた銀次は満ち足りた表情で帰路に着いた。
それを目にしたのは駅へと向かう道中だった。こじんまりしたカフェの店先で、何やら揉めている様子の若い男女。
「もういいよ……」俯く女。
「それはこっちのセリフだよ!」眉間に皺を寄せ、語気を荒げる男。
「じゃあ、別れよう」
男は吐き捨てると、女に背を向け、そそくさと立ち去ってしまった。
半ば放心状態の女。小さく肩を揺らし、すすり泣いているようだ。
それを見た銀次は、何かを思いついたように、いま来た道を駆け戻った。
都市公園の入口まで引き返すと、足元をキョロキョロ。
「あった!」
桜の木の下に落ちていた小枝を手に取る。そこにはわずかばかりの名残の花。銀次はそれに向かって、ふっ、と息を吹きかけた。
再びカフェに向かい走る銀次。視界の先には、おぼつかない足取りで駅の方へと向かう女の背中が見えた。
「ちょいちょい、すんません!」
よほど落胆しているのか、銀次の呼びかけに反応しない女。
「おねえさん、おねえさん!」
ようやく自分が呼び止められていることに気づいた女は、不安そうな素振りで振り返った。
「これ、よかったらどうぞ」
手にした小枝を差し出す。
「これは……?」
今にも零れ落ちそうな涙を溜めた目で、小枝と銀次を交互に見やる女。
「線香花火、いや、線香花見やな。人生、出会いもあれば別れもある。せっかくの春やから、幸せも満開に咲いて欲しいところやけど、おねえさんの恋愛は散ってしもうたみたいやから。まぁ、新しい恋に向かって歩き出すおねえさんに、せめてもの餞やな」
女が手にした小枝からは、音もなく飛び散る火の粉のように、桜の花びらが零れていた。
借り手不在の部屋が目立つ古ぼけたアパート。そこが銀次の棲家。缶ビールを一気に流し込んだ銀次は、「今日もおつかれさんでした」ひとり呟き、背中からベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げると、男のひとり暮らしの不衛生さを象徴するように、ベッドから吹き上げられた大量のホコリが視界の先に舞っていた。
「あ~あ、俺の春はいつ来るんや」
そう独りごちた瞬間、眼前に舞うホコリが一瞬にして色を帯びた。上品な桜の花びらを思わせる淡紅色。無機質なワンルームが、流麗な景色へと姿を変えた。
「どうゆうこと? どういうこと?!」
呆気に取られる銀次の耳に、女の声が飛び込んできた。
声に目をやると、ドアのそばにひとりの女が立っていた。
「さっきは友人を慰めてくれて、アリガト」
「友人?」
「ついさっき失恋した――」
「あぁ、あの女の子か!」
「彼女、少し気が晴れたって言ってたわ」
「そりゃあよかった……ところで、アンタは誰や?!」
「私?」
優美な色を帯び、もはや花びらと化したホコリたち。即席の桜景色が、女をいっそう魅力的に見せた。
「しがない画家よ。でも、あなたと似たような能力を持ってる。私の能力は、何にでも色をつけられる能力だけど」
そう言うと、女は絵筆を振る素振りをして見せた。
「実は、日本の桜の花びらは、既に色を失ってしまったの。気候変動のせいなのかはわからないけど――」
「でも、キレイなピンク色してるで?」
「誰のおかげだと思う?」
「もしかして……」
「正解!」
誇らしげな表情で銀次を煽る女。
「日本のあちこちを巡って、桜の花びらを染めて回ってるの。でも、せっかく色を取り戻したとしても、散ってしまった桜は私の力じゃどうしようもできない。そこで、あなたとパートナーを組めば、みんなにもっとハッピーを届けられると思って」
「パートナー?」
「えぇ」
「それって、ビジネスパートナーみたいなもんかいな?」
女は腰を屈め、ベッドに座る銀次の瞳を覗き込んだ。
「人生のパートナー。って言ったらどうする?」
女から漂う桜花の香り。思わず銀次は顔を赤らめた。
「新しい恋に向かって歩き出すあなたに、せめてもの餞を」
銀次の唇に女のそれが触れた。無意識に目を閉じていた銀次が薄目を開けると、ふたりを照らす鮮やかな花明り。単に眩しいからか、それともこの瞬間に酔っていたいからか、銀次は再びその瞳を閉じた。
ベッドに倒れ込むふたり。その勢いで、ベッドからはたくさんの花びらが舞い上がり、天井近くには、見事な桜花火が打ち上がっていた。
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