広くて狭い部屋

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誰も居ない部屋。 この部屋の様に、僕も空虚なんだ。 広くて狭い部屋 その部屋はシンナーの匂いが残っていた。 ワックスによって輝くフローリングの床には何も置かれていない。 コハルは大きく息を吸い、吐いた。 肺に悪そうな空気は、言っても煙草よりは害が無い。 この部屋の主となるコハルは、サファイアの眼で空間を見ていた。 財布とスマートフォンだけを入れた手提げバックを放り、部屋の隅に蹲る。 体育座りで顔を伏せ、目を閉じた。 明るい日差しはコハルを照らさない。 外の世界の鳥の声が聴こえる。 ただ、それだけだった。 ああ、まるで、僕の人生の様だ。 周りは明るくて、楽しそうで。 でも、コハルにはその光は当たらない。 この部屋は広く、でも、何も無い。 まるでコハルの心の様に、空虚だ。 でも、それを否定も肯定もしなかった。 バルコニーに続く大きな窓の、ガラスの先の世界に手を振る。 そう微笑んでいれば、皆ガラスが無いかの様に答えてくれるのだ。 でも、世界とコハルの間には透明なガラスが有る。 それは、陽の熱を遮断していた。 どれくらいそうしていたのだろう。 来客を知らせるインターホンが鳴り、コハルはすぐに立ち上がった。 とすとす、と何も無いフローリングを突っ切る。 歩く途中で、シンクを、洗濯機を、手洗いを横切った。 「こんにちは。新居はどうだい?」 インターホンの画面越しに立った男は言う。 「良い感じだよ」 そう思ってない事を言い、玄関の鍵を開けた。 「キリオさん、引越しの手伝いなんてさせてごめんね」 訪れた鳶色の大男を中に招く。 「構わないよ。いつもの事だし」 キリオはコハルの仕事を手伝う事が多いので、扱われる事に慣れていた。 カメラマンという仕事は意外と肉体労働であり、機材を運ぶのに人手は有難い。 新居の空間に入った途端、キリオはその大きな手でコハルの青紫髪を撫でた。 そのまま、二人は唇を重ねる。 コハルとキリオは、恋人同士だった。 引越業者が持ってきた段ボールの数は少ない。 その代わりに、新しいベッドは大きくした。 キリオさんがベッドを組み立てる様子を見ていたら、必要最低限の物を出したら?と指摘されてしまった。 そうだね、と小さい段ボールを手にする。 箱を開けるカッターは、"愛用"の物だ。 その付き合いは中学からだったと思う。 今となっては、"御守り"だった。 血錆の所は折ってあるから、切れ味は戻っている。 ガムテープの真ん中に刺し、段ボールの隙間を開けた。 「ある程度片付いたら昼飯にしないかい」 作業の途中でキリオは提案する。 コハルも、そうだね、と同意した。 暖かい日差しはコハルの名に似ている。 二人は近くに在ったカフェへ入った。 洒落ていてメニューも美味しい、中々当たりの店だと思う。 引越し祝いにと昼食はキリオが持ってくれた。 「これで気兼ね無く君に会えるね」 デザートのチーズケーキを食べるコハルを見ながらキリオは言う。 コハルも笑った。 「別に今までだって会ったじゃない」 「流石にミオさんに気を使ってたよ」 「キリオさんて気とか使うんだ」 悪口にも似た含み笑いも、銀眼は愛おしそうに見つめる。 キリオはこう見えて独占欲の強い男だ。 真綿で出来た首輪を付けようとする。 コハルもそれを受け入れ利用したから、彼が紹介したアパートへ引っ越してきた。 あの部屋は、キリオの実家からすぐに来れる。 コハルは強い力に引っ張られるのはやぶさかではなかった。 自ら沈もうとした海から引き戻された時、それに気付いた。 でも、心を全て許した訳ではない。 いや、許せなかった。 許せなかったから、同居をしなかったのだ。 僕は、ずるいな。 「そんな事無いよ」 手持ち無沙汰にストローを回していると、キリオは言う。 独り言を聞き取られて、恥ずかしくなった。 ベッドを置けば部屋は狭くなった。 それでも済むくらい、コハルの持ち物は少ない。 何も無かった空間は暮らす為の物で埋められた。 コハルの心も、この部屋の様に物を置いている。 その中を大きく陣取るベッドは、キリオと一緒に寝る為の物だった。
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