95人が本棚に入れています
本棚に追加
聞き馴染みのない、されど聞き覚えのある声に、瑛茉は歩みを止めた。
背筋にぞくりと走る悪寒に、肌が粟立つ。
声の主は、西園寺姫華だった。
「ちょっとよろしくて?」
柔らかく丁寧でありながら、どこか冷ややかな響きを持つ声音。
あの夜の浴衣姿とは打って変わって、ダークカラーの高級スーツを身に纏った姫華は、まさに大企業の重役といった風体だった。詳しいことはわからないが、おそらく彼女自身もなんらかの要職に就いているのだろう。
「日本語でかまわない? それとも英語のほうがいいかしら?」
「日本語でかまいません。……なんのご用ですか?」
姫華の皮肉めいた口ぶりに、努めて平静を装う。
わざわざバイト先の近くまで出向いてくるなど、よほどの理由があるに違いない。それも、崇弥が出張で不在のこのタイミングに。
一応聞き返してはみたものの、これからどんな言葉を浴びせられるのか、瑛茉には想像がついていた。
心が。
ざわめく。
「一介の学生が、崇弥さんとお付き合いできるだなんて、本気で思っているのかしら? 年齢差を鑑みても、あなたは子ども同然。家柄も、育った環境も、何もかもが違い過ぎるの。……はっきり言うわ。あなたは彼に相応しくない。子どものお遊びに彼を巻き込むのはやめて頂戴」
「……っ」
容赦のない姫華の言葉が、鋭い刃となって瑛茉の心を劈いた。突きつけられた事実、その冷酷さに、息が詰まる。
身の程をわきまえろ——切り裂くような目つきは、間違いなくそう言っていた。
痛い、苦しい、悔しい。さまざまな負の感情が、黒い渦となって瑛茉の胸中を蝕んでいく。
「……ご指摘は、ごもっともだと思います。でも……」
きゅっと、唇を噛みしめる。
自分と崇弥のあいだに横たわる、圧倒的な差。
わかっているのだ、自分が一番。その差を埋めることなど、とうてい不可能だということは。
でも。
それでも。
「あなたに、わたしのこの気持ちまで否定される筋合いはありません」
彼へのこの気持ちだけは、土足で踏みにじられたくない。
震える声を押さえつけるように毅然と告げると、瑛茉はその場をあとにした。姫華がどんな顔をしていたのか確認する余裕はなかったが、それ以上何かを言われることはなかった。
路地を抜ける。街の喧騒が近づく。
瑛茉の後ろには、落莫とした影が伸びていた。
最初のコメントを投稿しよう!