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冷たいタイルに、革靴の音が鋭く響き渡る。
静かな怒りを内に滾らせながら、崇弥は廊下を歩いていた。彼の纏う張り詰めた空気に、すれ違う社員たちは一瞬凍りついたように立ち止まると、慌てて頭を下げた。
普段は温厚で沈着冷静。そんな副社長の尋常ならざる様子に、社内は一時騒然となった。
崇弥の怒りの矛先は、ここ九条光学本社ビルの最上階だ。
「どういうつもりだ」
制止する秘書を振り切り、社長室の扉を押し開けると、崇弥は匡士郎に詰め寄った。不快そうに眉を顰め、貫かんばかりに睨みつける。
「やめろ、崇弥。姫華さんの前で。不躾だぞ」
椅子の背もたれにゆったりと体を預け、匡士郎は脚を組み直した。息子である崇弥を、ため息交じりに叱責する。
その隣には、スーツ姿の姫華が静かに立っていた。
「不躾なのはどっちだ。わざわざ俺がいないときに、その人を彼女にけしかけて」
「人聞きの悪いことを言うな。いつまでも煮え切らないお前を案じてのことだ」
椅子に深く身を沈め、呆れたような表情で息子の言葉を軽くいなす。
「大人の話をしましょう。崇弥さん」
そんな匡士郎に追随するように、姫華が前に一歩踏み出した。余裕すら感じさせる澄んだ声で、崇弥に語りかける。
姫華が瑛茉を待ち伏せたあの日。
月見茶房の常連客がふたり一緒にいるところを目撃したと、月尾から留守電が残されていた。嫌な予感がして瑛茉に連絡を試みるも、夜遅かったせいか繋がらず。寝ているのかもしれないと、翌朝電話をかけてもやはり繋がらなかった。以降、瑛茉とは音信不通に。
出張を前倒し、昨夜急いで帰宅した崇弥を待っていたのは、瑛茉のいなくなった空虚な部屋だけだった。
「……彼女に何を言ったんです?」
「大したことは何も。ただ、置かれた立場を、丁寧に説明して差し上げただけです」
崇弥の質問に、姫華は控えめながらも力強い口調で答えた。自信に満ちた表情。自分は微塵も間違ってなどいないといったふうな。
しかし、次の質問に、姫華は動揺し、言葉を詰まらせてしまう。
「あなたの望むものは何ですか? 俺との結婚ですか? それとも、九条の名前ですか?」
「……そ、れは……どういう意味、ですか……?」
「好きでもない相手と一緒になるその目的は何だと聞いてるんです」
「そ、んな……私は……っ」
「いい加減にしろ、崇弥! お前の戯言に付き合うのはもううんざり——」
「いい加減にするのはあなたたちのほうだっ!!」
匡士郎の言葉を遮るように、崇弥が声を張り上げた。
喉が千切れんばかりの激しい怒声に、思わず怯む匡士郎と姫華。そんなふたりに対し、崇弥は自身の奥底から突き上げてくる怒りを容赦なくぶつける。
「これまでに何度も言ったはずだ。俺は心を殺してまで結婚するつもりはないと。……俺の選択が会社のためにならないというのなら、今すぐ俺を経営から外し、首でもなんでも切ればいい!!」
そう吐き捨てると、崇弥は胸元の社章バッジをむしるように取り外し、思いきり床に投げつけた。純銀製のそれは、数回小さく跳ねたあと、ころころと転がり匡士郎の足に当たって静止した。
この言動の意味するもの。それは、まぎれもなく、九条との訣別——。
「……待て……待ってくれ崇弥……っ、崇弥……!!」
必死に呼び止めようとする匡士郎に目もくれず、崇弥は社長室から出ていった。その背中を、姫華が茫然と見つめる。
崇弥のいなくなった室内には、冷酷な静寂だけが残されていた。
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