第8話:夕凪のピボット

4/9
前へ
/68ページ
次へ
 窓を開ければ、朝日を浴びる瀬戸内海が、視界いっぱいに広がった。  穏やかな波間で躍る黄金色の光。爽やかな潮風で体を満たすように深呼吸すると、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなったような気がした。  午前六時。島の朝。  一階へと降りる階段の途中で、瑛茉は背後から声をかけられた。 「おはよう、瑛茉」 「あ、おじいちゃん。おはよう」  振り向くと、そこには祖父の姿があった。  白髪を梳き上げた髪型に、もみあげから繋がる白い顎髭。ずいぶん歳をとったけれど、眼鏡の奥の眼差しは、昔と変わらぬ優しさを湛えていた。 「まだ早いやろ。慣れん移動で疲れとるやろし、もう少し休んどったらどうや?」  心配そうな面持ちで、瑛茉の体調を気遣う祖父。これに対し、瑛茉はふるふるとかぶりと振った。 「大丈夫。昨日一日ゆっくりさせてもらったから。おばあちゃん手伝ってくるね」  ふわりと笑ってそう言うと、瑛茉は階段を軽やかに駆け下りていった。ひとつに結んだ胡桃色の髪が、リズムに合わせて左右に揺れる。  二日前。  瑛茉は、十七年ぶりに故郷の土を踏んだ。  前日の夜に祖母から連絡を受け、翌日の午前の新幹線で急遽岡山へと向かった。それからフェリーに揺られること、およそ一時間。  港で出迎えてくれた祖父母の姿に、思わず涙がこぼれた。 「おはよう、おばあちゃん」 「おはよう。よう眠れた?」 「うん。……その卵、どうするの?」 「え? ああ、だし巻き卵作ろうかな思てるんや。瑛茉、好きやったやろ?」  ボウルに入った新鮮な鶏卵。その横には、昔からずっと愛用している白だしの瓶が置かれてあった。 「わたし、作ってもいい?」 「あら、瑛茉が作ってくれるん? ほな、お願いしょうかな」  瑛茉のこの申し出に、祖母は目を細めた。  幼い頃、よく台所に立っては、祖母や母の真似事をしていた瑛茉。慣れた手つきで調理を進めていくその様子に、幼かった孫娘の成長を実感する。 「器用やね、瑛茉は。それに几帳面や。私や陽子とは大違い」 「お母さんにも言われた。『瑛茉のそういうところはお父さん似だね』って」 「なんや、あの子自覚あったんかいな。全然気にしてない思とった」  母の、娘の、思い出話に花を咲かせる。  朗らかで、闊達で、いつもにこにこ笑っていて。その名のとおり、家族にとって、陽子はまさに太陽のような存在だった。  亡くなり、七年経った今でも、それは変わらない。 「東京でも、自炊しよるん?」 「え? あ……うん」  祖母の何気ないこの問いかけに、瑛茉は声をしぼませた。思わず視線を下に向ける。  自炊、していた。毎日。彼が、美味しそうに食べてくれたから。  彼は今、どうしているだろうか。  家で待っていると言ったその約束を、自分の弱さゆえ反故にしてしまった。着信にも応えず、メッセージも返さず、今なお彼から逃げ続けている。……最低だ。 「……ほな、そろそろ食べよか。おじいちゃん呼んできてくれる?」  瑛茉の抱える何かを悟ったのだろう。自身より少し高い位置にある頭をぽんぽんと撫でると、祖母は器におかずをよそい始めた。 「……」  祖母の背後で、こしこしと目をこする。  ご飯から、味噌汁から、だし巻き卵から、細く立ちのぼる湯気。  白く揺らめくその向こう側に、優しい彼の笑顔が見えた気がした。
/68ページ

最初のコメントを投稿しよう!

95人が本棚に入れています
本棚に追加