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窓を開ければ、朝日を浴びる瀬戸内海が、視界いっぱいに広がった。
穏やかな波間で躍る黄金色の光。爽やかな潮風で体を満たすように深呼吸すると、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなったような気がした。
午前六時。島の朝。
一階へと降りる階段の途中で、瑛茉は背後から声をかけられた。
「おはよう、瑛茉」
「あ、おじいちゃん。おはよう」
振り向くと、そこには祖父の姿があった。
白髪を梳き上げた髪型に、もみあげから繋がる白い顎髭。ずいぶん歳をとったけれど、眼鏡の奥の眼差しは、昔と変わらぬ優しさを湛えていた。
「まだ早いやろ。慣れん移動で疲れとるやろし、もう少し休んどったらどうや?」
心配そうな面持ちで、瑛茉の体調を気遣う祖父。これに対し、瑛茉はふるふるとかぶりと振った。
「大丈夫。昨日一日ゆっくりさせてもらったから。おばあちゃん手伝ってくるね」
ふわりと笑ってそう言うと、瑛茉は階段を軽やかに駆け下りていった。ひとつに結んだ胡桃色の髪が、リズムに合わせて左右に揺れる。
二日前。
瑛茉は、十七年ぶりに故郷の土を踏んだ。
前日の夜に祖母から連絡を受け、翌日の午前の新幹線で急遽岡山へと向かった。それからフェリーに揺られること、およそ一時間。
港で出迎えてくれた祖父母の姿に、思わず涙がこぼれた。
「おはよう、おばあちゃん」
「おはよう。よう眠れた?」
「うん。……その卵、どうするの?」
「え? ああ、だし巻き卵作ろうかな思てるんや。瑛茉、好きやったやろ?」
ボウルに入った新鮮な鶏卵。その横には、昔からずっと愛用している白だしの瓶が置かれてあった。
「わたし、作ってもいい?」
「あら、瑛茉が作ってくれるん? ほな、お願いしょうかな」
瑛茉のこの申し出に、祖母は目を細めた。
幼い頃、よく台所に立っては、祖母や母の真似事をしていた瑛茉。慣れた手つきで調理を進めていくその様子に、幼かった孫娘の成長を実感する。
「器用やね、瑛茉は。それに几帳面や。私や陽子とは大違い」
「お母さんにも言われた。『瑛茉のそういうところはお父さん似だね』って」
「なんや、あの子自覚あったんかいな。全然気にしてない思とった」
母の、娘の、思い出話に花を咲かせる。
朗らかで、闊達で、いつもにこにこ笑っていて。その名のとおり、家族にとって、陽子はまさに太陽のような存在だった。
亡くなり、七年経った今でも、それは変わらない。
「東京でも、自炊しよるん?」
「え? あ……うん」
祖母の何気ないこの問いかけに、瑛茉は声をしぼませた。思わず視線を下に向ける。
自炊、していた。毎日。彼が、美味しそうに食べてくれたから。
彼は今、どうしているだろうか。
家で待っていると言ったその約束を、自分の弱さゆえ反故にしてしまった。着信にも応えず、メッセージも返さず、今なお彼から逃げ続けている。……最低だ。
「……ほな、そろそろ食べよか。おじいちゃん呼んできてくれる?」
瑛茉の抱える何かを悟ったのだろう。自身より少し高い位置にある頭をぽんぽんと撫でると、祖母は器におかずをよそい始めた。
「……」
祖母の背後で、こしこしと目をこする。
ご飯から、味噌汁から、だし巻き卵から、細く立ちのぼる湯気。
白く揺らめくその向こう側に、優しい彼の笑顔が見えた気がした。
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