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夕日に染まる浜辺を、瑛茉はひとり歩いていた。
髪をさらう湿気た海風。波が岸に届くたび、白い泡が生まれては消えていく。濡れた砂は光を反射して宝石のようにきらめき、素足を柔らかく包み込んだ。
水平線に沈む太陽、その残光に、遠く懐かしい日々を重ねる。
祖父にすべてを打ち明けたあと、帰宅した瑛茉は、すぐさま彼に連絡した。
直接言葉を交わす勇気はまだ持てなかったし、そもそも仕事中かもしれないとの思いから、通話ではなくメッセージを選択した。
震える指先で綴った、今の自分の素直な気持ち。
黙っていなくなってごめんなさい。
約束を破ってごめんなさい。
今は祖父母の家にいると伝えれば、数分後、彼から返信が届いた。
『無事でよかった』
止まっていた涙が、ふたたび溢れ出した。
彼がどれほど自分のことを心配してくれていたか……その気持ちを想像すると、申し訳なさで胸が押しつぶされそうだった。
改めて思った。身をもって痛感した。
好き、という言葉では、とうてい表しきれない。
自分は、彼のことを、心の底から愛している。
「……崇弥さん」
ずっと音にしていなかった、彼の名前。
「……っ、崇弥さん……」
何よりも愛おしいその名前を、潮騒に乗せるようにそっと呟いた。
刹那。
「瑛茉ちゃん」
風が、止まった。
思わず息を呑む。
つややかな黒髪。凛とした佇まい。
そこにいるはずのない存在に惑い、夢かと疑うも、砂の上に確かな足跡を残しながら、彼はこちらへと歩いてきた。
「……ど、して……」
「実は、連絡もらったとき、新幹線の中だったんだ。確信はなかったけど、たぶん、この島にいるだろうって。……会えてよかった」
そう微笑んだ彼の顔は、切ないほどに美しかった。
よろりと、力なく一歩を踏み出す。砂に足が沈む。ふらつく体を支えるように、さらに二歩目を踏み出した。
三歩。
四歩。
五歩目で駆け出した瑛茉を、崇弥はその両腕でしっかりと抱きとめた。この数日でさらに細くなった瑛茉の体を、きつく抱き寄せる。
「……ごめ、なさ……わたし……っ、ごめんなさい……——」
「謝るのは俺のほう。……ほんとにごめん。また、君に嫌な思いをさせた」
崇弥の掠れた声が、瑛茉の耳朶を打つ。
あの日、瑛茉の身に何が起きたのか、どんな非情な言葉を浴びせられたのか、大体の見当はついている。
そっと額に口づければ、瑛茉は涙を浮かべたその顔を持ち上げた。泣き腫らし、目元に溜まった雫を、指先で優しく拭いとる。
「昨日、親父と話つけてきた。彼女とも。……もしかすると、今の地位やそれに付随するもの、全部手放すことになるかもしれない」
「……そ、んな……わたしのせいで——」
「それは違う。これは俺の選択だから。俺が、君じゃないとダメだから……。もし、一からすべてをやり直すことになっても、それでも俺と一緒にいてくれる?」
瑛茉の瞳を真っすぐに捉える、崇弥の真剣な眼差し。そこに宿る堅固な意志に、瑛茉は迷うことなく肯いた。
砂浜に伸びる、ふたつの影。互いの熱を、存在を、確かめるように抱き合う。
布が、皮膚が、邪魔だ。わずかな隙間でさえ、もどかしいくらいに。
唇が触れる。舌先が、甘く痺れる。
重なった吐息はひとつになり、やがて、この島の夕凪に溶け込んだ。
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