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「ふあ~……おはようローレライ」
「おはようございます、三十六歳窓際族」
「ばっちり目が覚めたわ、ありがとうな旧世代」
「それは事実なのでイヤミで言っているのなら0点です、無精ひげ」
口元を引き攣らせながら、川口は自分の席についた。ほどよくぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。
「空きっ腹にブラックコーヒーは胃に悪いからやめたほうがいいですという忠告は、四十八回目です」
「強化合宿中だ」
「胃は強くなりません」
AIとの会話に川口は小さく笑みを浮かべた。毎回「俺の好きにさせてくれ」と言っていたら「学習機能が育たないから違う切り返しをしてください」と言われ、なんて言おうか考えるのがささやかな楽しみだ。
ここは海底八千メートルの深海基地である。月移住が完了し、惑星移住計画が進む昨今。日本は島国であるのに海の研究があまりにも遅れていると、深海探査事業も細々と続いている。時代遅れ、暇人のお遊び、税金の無駄遣い。世の中の評価はそんなものだ。今世界は火星探査最盛期である。
優秀な研究者だった川口だが、思い出すのも嫌なくらい絶望したことがあり。こうして誰も行きたがらなかった深海探査の仕事に着いている。予算確保のための、まったく意味のない事業だ。
「誰とも会わないのは孤独かと思ったけど。コミュ障の俺にとっては楽園だ」
「会話をするのは私とだけですからね。作るだけ作っておいて放って置かれている四世代前のポンコツAI。会社においても社会においてもヒエラルキーがアリの巣より下となったあなたとは良いコンビだと思っています」
「ありがとうよ、本当に。ストレスからは逃げるもんだと思ってたけど、ここに来てからはどうやって仕返ししてやろうかなって考えになった」
「思考を止めない事は認知症予防に効果的ですので、どんどんやってください」
「くそ、お前になんかしたら結果的に俺が困るからなあ」
人生を捧げたと言っていいほどに熱中していた研究。それを親友だと思っていた男に見事に盗まれた。全てを失い逆に川口が盗んだとまで言われてしまった。
近しい人は皆離れ何もかもが馬鹿らしくなって、上司からこの場所への転属……要するに左遷なわけだが、それを命令され喜んで受け入れた。
地上は情報が多すぎる。自分を非難する声も、会ったこともない赤の他人に馬鹿にされるのもうるさい雑音でしかない。
ここは静かだ。深海は波の音もない。それなのに何かが擦れるような音、くぐもった音。地上ではまず聞かない不思議な音で溢れていて、深海の音を聞くのが楽しい。
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