田村弥太郎②

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田村弥太郎②

 僕は歪んだ黒い線の上に足を振り下ろした。硬いアスファルトの感触しかない。意味のわからない事を叫びながら、何度も何度も足を振り上げては下ろした。  どれくらいそうしていたか分からない、時間にすれば一分にも満たなかったかも知れないけど。僕にとって永遠とも思える苦痛が終わり、息を切らして前を見た。  後藤くんが笑いを堪えながらスマートフォンをコチラに向けていた。小学校ではスマートフォンの持ち込みは禁止されている。でも、実際には密かに持ち込んでいる生徒が何人かいるのは知っていた。僕はそもそもスマートフォンを持っていない。 「後藤……くん?」  恐る恐る話しかけると、後藤くんは口の中にある空気を吐き出して笑い出した、背後からは鎌田くんの笑い声も聞こえる。 「やっべーよ! 衝撃映像。人間狂気、田村! 小さな命を踏みにじる! まさに家庭環境の犠牲者、モンスターの爆誕だぁ!」 「え、あの、後藤くん?」  右腕を伸ばすと、汚いものを避けるように後藤くんはヒラリとかわした。 「おい、俺にも動画送れよ」  鎌田くんが言うと後藤くんは「おう」と返事をしながらスマートフォンを操作している。そして、何も言わずに立ち去ろうとする背中に慌てて話しかけた。 「ねえ、約束は? 友達……」  二人は同時に振り向いた。 「はぁ? お前みてえな危ない奴と友達になれっかよ、おっかねぇ。アリさんと遊んでろよ、お前がぶっ殺したアリさんとよぉ」  後藤くんは興味を失ったように冷めた視線を僕に向けると、踵を返して歩き出した。 「そんな……」  僕はその場にへたり込み、一歩も動けない。視線を落とすと動かなくなったアリ達がアスファルトの上で、打ち上げられた魚のようにピクピクと痙攣していた。僕が踏み潰したアリ達は、みんな苦しそうにのたうっている。 「ごめん……。ごめんね」  僕はポケットからパンの残りを取り出して小さくちぎる、アリ達の周りに巻いてみても、動けなくなった彼らがパンに群がる事はなかった。涙が止まらなかった。情け無い自分が許せなかった。 「田村……くん?」  どれくらいの時間、その場にしゃがみ込んでいたか分からない。背後から名前を呼ばれて現実に引き戻され、振り返ると隣のクラスの園部先生が笑顔で立っていた。 「やっぱり田村くんだ、田村弥太郎くん」  そう言って破顔すると、僕の前に同じようにしゃがんで目線を合わせてくる。三ヶ月前に赴任してきた若い女の先生は、とても美人でみんなから人気があった。僕は一度も話した事がないけど、園部先生は僕の名前をフルネームでそう呼んだ。 「はい、そうです」  それだけ答えると園部先生は僕の足元に視線を送る、そこでは再びアリの行列が線隊を立て直し、規律正しく巣穴に向かって列をなしている。周りには無数の死骸が放置されているのに、仲間たちは意に介さずに巣穴を目指していた。 「昆虫の観察かな?」  小首を掲げて見つめてくる。その純粋で綺麗な瞳に見つめられると、僕は自分の醜さを見透かされそうで目を逸らした。無抵抗のアリ達を自分の欲の為に踏み潰した醜い人間。視線の先にはもう二度と動かない黒い点と、必死に自らの使命をまっとうする黒い線。悪戯に生命を奪ってしまった事実と、申し訳なさが込み上げてきて涙が溢れた。アスファルトにパタパタっとしみが出来る。 「どうしたの?」  小さな手が僕の背中を軽く撫でた、人に優しくされて僕は余計に涙が溢れる。嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに答えた。 「ぼ、僕が……、アリを、ひっ、ひっく。潰しちゃって。それで……、もう、動かなくて……」  園部先生は微笑みながらウンウンと頷いた。彼女はきっと僕が誤ってアリを踏んでしまったと思っているにちがいなかった。そして僕の横に来ると動かなくなったアリ達を優しく摘んで自分の手のひらに乗せていった。 「お墓をつくろう」  僕は園部先生からアリを両手で受け取った。「ちょっと待ってて」と言って走り去っていく後ろ姿を、僕はぼうっと突っ立ったまま眺めていた。  三分もしないで園部先生は戻ってきた、小さなシャベルとなぜかアイスを持っている。近くの花壇にしゃがむとそのシャベルで穴を掘り出した。 「これでよーし! 弥太郎くん、納骨の儀を」 「え、あ、はい」  それがお墓になるのだと理解した僕は、両手に持ったアリ達をそっと穴の中へ返した。心の中で何度も「ごめんね」と謝りながら。  穴を埋めると先生はアイスの袋を破いた、水色のアイスに棒が二本突き出ている。それを綺麗に真ん中で二つに割ると一本を僕に差し出した。 「内緒ね」  いたずらをする子供のようにはにかむと、アイスを食べ出す。僕が学校の敷地内でアイスを食べる事を躊躇っていると「早くしないと溶けちゃうよ」と言われて慌てて口に入れた。甘いソーダの味が心に染み渡る気がした。 「どうか成仏してくださいアリ様」  パンパンッと手を叩いた先生の前には、アイスの棒が突き刺さった小さなお墓がある。マジックで『アリ一同』と書かれたアイスの棒。僕も先生の横で手を合わせた。心の中で何度も謝りながら。
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