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田村弥太郎⑦
「ちょっと待って弥太郎くん」
放課後、教室を出た所で園部先生に声をかけられて僕は足を止めた。
「どうしたんですか?」
「昨日渡した御守り、あれちょっと間違えちゃってね。本当は弟に渡すやつだったのよ、もう、先生うっかり」
言いながら先生は自分の頭をコツンと叩いた、どこか芝居がかった様子に多少の疑問を感じたけど「そうなんですね」とランドセルを下ろして、昨日渡された御守り袋を冠裏から取り出して手渡した。
「ごめんね、弥太郎くんのはこっちだから。これならバッチリ盗聴、じゃなくて御利益があるから」
先生はポケットから別の御守りを取り出すと、再びランドセルにしまってくれた。一見して同じように見えた。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げると、先生はにっこり微笑んで去って行った。不思議な先生だなぁ。そんな事を考えながら教室を後にすると、教頭先生が僕の前を横切って行った。
「さようなら」
反射的に挨拶をする。
「ああ、さような――」
最後まで言いかけて目を見開いている。一般的に教頭先生と言えば、薄い頭髪にメガネをかけた初老の男性をイメージするけど、この人は黒々とした髪に彫りの深い顔。いわゆるダンディーといった風体だ。
「今帰りかい?」
「はい」
「気をつけて帰りなさい」
「はい」
そそくさとその場を立ち去ろうとする背中に向かって僕は言った。
「お母さんを捨てないでください」
落ち込む姿を見たくない。友達ができた僕は、単純にそれだけを望んだ。
「ちょちょちょっと、田村くん」
歩き出した僕の肩をガッと掴んで引き止められた、びっくりして振り返ると、狼狽した表情の教頭先生がしゃがんで僕に目線を合わせる。
「あのね、君のお母さんとはその、なんて言うか。相談相手なんだよ、田村くんの事で相談があると」
お母さんが僕のことで相談? そんな事があるだろうか、それに相談するならまずは担任の先生が適任な事くらい頭の悪い僕でも分かる。つまり、その事実は公に公表して欲しくないのだろう。不倫だから。
「分かりました」
不倫がどの程度の悪事なのかはあまりピンとこなかったけど、別に僕から言いふらす気は毛頭ないし今はそれどころじゃない。これから一大イベントが待っているのだ。
「ちょちょちょ、待って。何が分かったの?」
再び立ち去ろうとする所を引き止められる。教頭先生も必死だ。
「先生とお母さんは赤の他人です」
「いや、まあそうなんだけどね、相談があれば私はいつでも乗るからと、そう伝えて貰えると角が立たないと言うか……」
「はい、分かりました」
目を見て返事をするとホッとしたように立ち上がり「さようなら」と言って、去って行った。その後ろ姿をみてお母さんがまた落ち込む日はそう遠くないな、と悲しくなる。気を取り直して昇降口に向かった、後藤くんと鎌田くんは先に帰って準備をして待っているらしい。何の準備か分からなかったけど、僕のためだというのは間違いない。そう思うと嬉しかった。
校門を出る前に花壇に寄って、アリのお墓に手を合わせていると隣に気配を感じた、園部先生かと思って首だけ横に向けると、隣のクラスの橋本瑠璃菜さんだった。僕はびっくりして尻餅を着きそうになったのを寸前で堪えた。
「久しぶりだね田村くん」
「え、え、うん」
心臓がバクバクと音を立てている、まるで聴診器で聞いていると錯覚するほど大きな音で、橋本さんに聞こえていないか不安になったが、彼女はコチラを向いて薄く微笑んだ。
「あ、わたし園芸委員なんだ」
僕のすぐ隣、息が吹きかかるくらいの至近距離で橋本さんはジョウロで水をやり始めた。ふわっと甘い、良い匂いがする。
「ご、ごめん! 勝手に穴を……」
橋本さんはフルフルと首を左右に振った。その仕草は何だか大人びていて、モデルの仕事で大人たちに囲まれている彼女との距離を感じてしまう。
「お墓なんでしょ? ななみんから聞いた」
ななみん、園部先生をそう呼ぶのはスクーカースト上位者だけの特権だ。もちろん橋本さんはその中でも頂点に君臨している、と思う。
「うん、僕がふみつぶしちゃ――」
そこまで言ってハッとした。
橋本さんはあの動画を見たのだろうか?
わけの分からないことを叫びながらアリを踏み潰す僕の姿を……。途端に血の気が引いてくる、心拍数が上がり汗が吹き出してきた。チラッと目線だけ彼女に向けるが何事もないように水やりを続けている。
俺たち友達だろ?
後藤くんの言葉を思い出す。そうだ、後藤くんは約束を守ってくれたんだ。だったらあの動画は拡散なんてされていない。二人はきっとそんな事をしていないんだ。
「田村くんは相変わらず優しいね」
「あ、いや、そんなこと……」
大きな目で見つめられて僕は顔を背けた。
「夏祭りのこと覚えてる?」
橋本さんはそう言うと、しゃがんだ膝の上に頬っぺたを乗せて僕を覗き込んだ。
「う、うん」
忘れるはずがない、彼女と初めて話した小学校三年の夏。近所の神社で毎年行われている夏祭りに僕はお母さん、当時の彼氏と出向いていた。りんご飴、チョコバナナ、綿飴、お母さんの彼氏は僕に何でも買ってくれた。祭りをたっぷりと堪能した帰り、僕らの前には浴衣を着た同年代の女の子が歩いていた。お父さんに手を引かれ、逆の手には透明な巾着袋に浸した水の中に、金魚が一匹泳いでいる。食べ物しか興味がなかった僕は射的や金魚すくいには目もくれなかった。
僕が飲んでいた水をちょうど飲み干してしまう寸前に事件は起こった。目の前を歩く女の子が派手に転んだのだ、幸いお父さんが片手を握っていたから大事には至らなそうだったけど、右手に持っていた巾着袋はアスファルトに投げ出され、中にいた金魚は水と一緒に飛び出してしまっていた。硬い地面の上でピチピチと跳ねる金魚が街頭に照らされている。女の子はその場に四つん這いになって泣き出した。
「ヒッ。金魚が死んじゃうよー。ヒッ、お父さん助けて」
先程まで水の中を優雅に泳いでいた金魚は突然訪れた緊急事態にパニックを起こしたように、地面をピチピチと叩いている。女の子のお父さんも水が無ければどうしようもないといった感じで困惑していた。女の子はただその場で泣くばかりでどうする事も出来ない。通り過ぎる祭り帰りの人たちも、さっと一瞥しては通り過ぎて行った。
女の子の涙がパタパタっとアスファルトにシミを作る。僕は気がつくと走り出していた。少しぐったりした金魚を僕は両手でそっと拾い上げると、そのまま口の中に放り込んだ。そう、僕の口の中にはまだ飲み込んでいない水があったのだ。
「んー!」
唖然と目を見開く女の子に僕は指を刺した。僕の家の方角だ。
「んー! んんん!」
着いてきて、と言うと女の子は通じたのか首を縦に振った。僕はそこから走ってすぐの自宅まで全力で走った。
「ちょ、弥太郎!」
お母さんの声を振り切って家まで走った、吐き出してしまわないように、両手で口を押さえながらとにかく走った。女の子とお父さんも付いてくる。アパートの玄関に着くと、首から下げた鍵で扉を開けて中に入る。靴を脱ぎ捨てて電気をつけると、キッチンに向かいコップを手にして急いで水を注いだ。口に含んでいた金魚をその中に吐き出すと、金魚は何事も無かったようにコップの中を泳ぎ出した。僕は思わず胸を撫で下ろした。
「おじゃましますー」
背後から声がかかり、先ほどの親子がしづしづと入って来た。女の子の顔を見てハッとする。同じクラスの橋本さんだった。今までは必死でまったく気が付かなかったのだ、途端に赤面してしまう。
「田村……くん? だよね」
橋本さんが言うと、傍のお父さんが「クラスメイトか?」と彼女に聞いた。首を縦に振る娘を見てから、お父さんは僕が手に持っているコップに目をやった。
「ありがとう、えっと、田村くん。本当に助かったよ」
「あ、いえ、すみません……。口に、金魚が汚くなっちゃった」
お父さんは薄く目を閉じて、首を横に振る。優しそうな人だった。
「田村くんは他人のために一生懸命になれる人なんだね、カッコいいよ、すごく立派な人間だ」
僕が、カッコいい?
「ほら、瑠璃菜、ちゃんとお礼を言いなさい」
僕が沈黙しているとお父さんは彼女の背中をそっと押した。
「あ、ありがとう」
蒸気した顔、目は真っ赤だった。それほど大切な金魚を助けることが出来て良かった、口の中は生臭いけど。
「う、うん。全然……」
モゴモゴと返答する。まさかこんな形で好きな女の子とお話し出来るとは思いもよらなかった。
「お水、頂いても良いかな?」
お父さんは持っていた透明の巾着袋にコップの金魚を移し替えた、相変わらず金魚は優雅に泳いでいた。
二人は何度も頭を下げて玄関を出ていく、ちょうど帰ってきたお母さんにも丁寧にお礼を言っていた。去り際にお父さんが聞いて来た。
「田村くん、下の名前は?」
「え、あ、弥太郎です」
「弥太郎くん、良い名前だな。ありがとう弥太郎くん」
もう何度目か分からないお礼に、僕は「いえ」とだけ答えた。
もしかしたらこれをきっかけに橋本さんと仲良くなれるかも、そんな僕の卑しい考えは叶うことも無く五年生のクラス替えで彼女とは離れ離れになった。ただの一度も話す事なく――。
その橋本さんが時を超えて今、僕のすぐ横にいた。
「あのさ、気にする事ないからね。私は知ってるから、田村くんが誰よりも優しいって」
「え?」
「ううん、何でもない」
「き、金魚元気?」
沈黙に耐えきれずに無理矢理出した話題に我ながら辟易する、三年も前の出店金魚が生きているわけがない上に、なんだか恩着せがましい。
「もう、死んじゃったんだ」
「そ、そうだよね」
「でも嬉しかった」
ポツリと呟いた彼女の横顔を見つめた、あの時みたいに顔が真っ赤になっている。
「弥太郎くん?」
不意に呼ばれて「はい」と返事した。
「弥太郎くんて呼んでも良いかな?」
彼女の顔はどんどん赤くなる、もしかして具合が悪いんじゃないだろうか。途端に心配になる。
「も、もちろん」
「あのさ、今度――」
チャイムが鳴って振り返り、校舎に張り付いた時計を見ると、すでに四時を回った所だった。しまった、ついついゆっくりとし過ぎた。後藤くんたちを待たせてしまう。
「ごめん、僕、いくね」
「あ、うん」
結局、橋本さんと小学校で話したのはそれが最後になった。彼女が何を言いかけたのか気になったけど、その時の僕には友達が何よりも優先された。初めて出来た二人の友達が――。
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