田村弥太郎⑪

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田村弥太郎⑪

 僕は結局、転校する事になった。その理由が動画の件なのか、お母さんと教頭先生の不倫なのかは今だに分からない。園部先生は懲戒免職になったと後から知った。生徒を二人も暴行した事実は教育委員会にも知れ渡る事になり、二度と教師には戻れないと知ったのも後の話だ。  中学生になると虐めはなくなったけど、相変わらず友達はいなかった。また騙されるのが怖かったのもある。頑張って勉強してみたけど相変わらず頭は悪くて、何をやってもダメだった。でも何があっても平気だった、園部先生がこの世界のどこかにいるから。世界中の人が僕を嫌いでも、園部先生だけは僕の味方だと知っていたから。  先生から貰った三つめの御守りを首から下げて、いつか立派な大人になって先生に会いに行くと決めていた。先生のおかげで生きてこれたよ、と伝える為に。  そんな僕の想定した未来をあっさりと覆したのは中学校三年の冬、あと少しで卒業だった。家を留守にしがちなお母さんには慣れていたけど、遂に僕を捨てる決心がついた理由は、きっと新しい彼氏との間に僕は邪魔だったんだろう。 『ごめんね』  それだけ書かれたメモ用紙を見て、悲しみよりも良く謝る人だったなあ、と見当違いな感想しか出てこない。  ともあれたった一人の親から見捨てられた僕はしばらく街を彷徨い、公園に寝泊まりした。アパートをいきなり追い出される事はないと思ったけど、家賃の集金に怯える日々よりも気楽な野宿を選んだ。  結果的にそれは失敗で、あっという間に身なりは汚くなり、お金もない僕は公園の水だけで過ごした。しかし、それも二日で限界がきて最後の手段を使うしかなかった。首から下げた御守りの中には折り畳んだメモ書きが入っている。気がついたのはほんの一年前だ。僕はそこに書かれた住所に向かって歩き出す。幸い徒歩でも一時間くらいの距離だった。  目的地に近づくにつれ足取りが重くなる、街のショーウィンドウに映る自分自身が、あまりにもみすぼらしく見えて引き返そうかと思い悩む、そしてすぐ自分には引き返す場所なんてない事を思い知らされた。  結局、三時間かけて僕は園部先生の自宅にたどり着いた。二階建ての一軒家は比較的新しくて、表札には園部とローマ字のプレートが掛かっている。その横にあるインターホンを押そうとして手が止まる。  迷惑に決まっている――。  さすがに中学三年生にもなれば、親に捨てられた自分が突然訪ねることが、非常識極まりない行為だと理解できた。それも担任でもない、小学生の時の隣のクラスの一生徒。首から下げた御守りを服の上からギュッと握りしめた。  僕はすでに一度助けてもらった、もしあの時に園部先生が後藤くん達を止めてくれなかったら。あの動画はずっと消えずに今も残っていたに違いない。考えただけで恐ろしかった。何より誰も僕を信用してくれない状況の中で、園部先生だけはなぜか僕を信じてくれた。その気持ちだけで僕は生きてこれた。世界中にたった一人でも信じてくれる人がいる。存在するだけで力になる。それはきっとこれからもそうだろう、僕のような人間はどこに行っても軽んじられ、踏みにじられ、虐げられて生きていくしかない、分かってる。それでも、園部先生がどこかで生きている、その事実で僕は生きていけるだろう。すでに僕は先生から沢山のものを貰っていた、これ以上迷惑をかけたくない。インターホンを押そうとしていた右手を下ろした。  帰ろう……。ここではない何処かへ。そう決意した時だった。 「うちに何のようだ!」  急に甲高い声で怒鳴りつけられて後ろを振り向くと、目つきの悪い小学生くらいの男の子が仁王立ちで僕を見上げていた。その瞳には明らかな敵意が含まれていて、肩に担いだ金属バットを見てギョッとした。 「あ、あの、僕は決して怪しいものでは……」 「てめー、ヒロのストーカーだろ」 「はい? ヒロ……とは」  目つきの悪い男の子は、睨めあげるように僕の事を観察している。 「お前、中坊か?」  巨漢の僕より二回りは小さな男の子が怪訝そうな表情で聞いてきたので「はい」と正直に答えた。 「デブだなお前」  なんて失礼な子供だ。先程の敵意丸出しの表情が無くなると、愛嬌のある可愛らしい顔の男の子から発せられたとは思えない、棘のある声色で彼は言い放った。 「そ、そうかなあ、これくらい結構いると思うけど」 「いや、いねーだろ。なんだってそんな太ってるんだ?」  彼は真面目な顔で聞いてきた、なんで? 何でだろうか。考えた事もなかった。 「あ、あれだよ。きたる食糧危機に備えているんだ」 「へー、アザラシみてーだな」 「ま、まあね。日本の食料自給率は年々減少傾向にあるんだ。君もそんな体じゃあ、すぐに飢え死にしてしまうよ」 「すげーなお前、ただのデブじゃねえんだ」 「ま、まあね」  僕は一体、小学生相手に何を言っているのだろう、悲しくなってきた。 「じゃあ、僕は先を急ぐからこれで」  そう言って踵を返して歩き出した時だった。 「弥太郎くん?」  目の前には自転車にまたがって僕を見つめる園部先生がいた。カゴに入ったスーパーの袋からはネギが飛び出ている。 「弥太郎くんじゃない! キャー! 久しぶり、おっきくなったねえ」  先生は自転車を降りてきて、僕の体にペタペタと触れた、成長した僕は先生と同じくらいに身長が伸びていて、目線の高さが変わらないのがなんだか変だった。 「なんだよ、ヒロの知り合いか」  男の子は園部先生にそう言うと、興味をなくしたように家の中に入って行った。そこでようやく彼が先生の家族なんだと思い至る。 「それで、一体どうしたの。あ、これから夕飯だからさ、食べて行きなよ、すき焼き、好きでしょ?」  肩をポンポンと叩かれても何も言えなかった、すき焼きはもちろん大好きだけど。今の状況を上手に話す語彙力が僕にはない。黙ったまま俯いた僕に、先生は先を促さない。ただジッと優しい笑顔で見つめてくれる。 「お母さんが……」  かろうじてそれだけ呟いてみても、力無い言葉が重力に負けたように地面に落ちていく。 「出ていきました」  僕を捨てて――。  そうだ、僕は捨てられたんだ、たった一人の家族から。その現実が今更になって押し寄せてくる。そして僕のお母さんが出て行ったからなんだと言うのだ、園部先生にはまったく関係ない、相談するのはお門違いだ。昔ちょっと助けてくれただけで家まで押しかける図々しさ、また助けてくれるだろうという傲慢な考えがあまりにも恥ずかしくなる。  帰ろう――。  そう思っているのに足がアスファルトに固定されたように動けない。同時に目に涙が溜まり鼻の奥がツンとする。だめだ、泣くな、泣くな。 「助けて……先生」  みるみるうちに視界がぼやけていく、アスファルトにパタパタっとシミを作ったのと同時に、ふわっと甘い香りに包まれた。三年前と同じ、園部先生の匂い。 「よく私を頼ってくれたね。嬉しいぞ、弥太郎くん」  僕の耳元で先生は言った。僕はまた、あの時みたいに涙がずっと止まらなかった。  世界に一人だけの僕の味方、大好きな園部先生――。    なのにどうして、どうしてこの世界に先生はいないんだろう?
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