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園部陸人①
「ほら朝ごはん出来たよー! みんな起きてー」
眠い目を擦りながら二段ベットの上段から降りると、下段ではトドのような体躯をした弥太郎が上半身だけ起こして欠伸をしていた。
木の階段を降りて一階にあるダイニングの椅子に座り、目の前に用意されている目玉焼きに醤油をかけて白身だけ口に放り込む。黄身は隣の皿にお裾分けだ。
『本日も梅雨とは思えない晴天で、私も梅雨入りしたとはつゆ知らずに過ごしておりましたが――』
テレビから気象予報士のくだらないダジャレが聞こえてきてゲンナリした。リモコンでチャンネルを変えてから、こんがりと焼けたトーストを齧り、ベーコンにはマヨネーズをつけて食べた。グラスに入った黄色い液体を見てため息がでる。
「あやちゃん! ガキじゃないんだからオレンジジュースなんか飲まないよ」
ポニーテールを揺らしながら目玉焼きを焼く彼女の背中に抗議した。
「あら陸人、じゃあコーヒー飲む? ブラック無糖」
「ん、ああ、そうだね」
用意された熱々のコーヒーを一口飲んで吹き出しそうになった。こんな苦い液体を大人は飲むのか。信じられない。
「無理しなさんなって」
ゆっくりと右隣に座った弥太郎が優雅にコーヒーカップを傾けた。たった三つしか年が違わないのに奴は平然と黒い液体でトーストを流しこんでいる。
「無理なんかしてねーし」
目をつぶって無理やりコーヒーを飲み下した。すぐにオレンジジュースが入ったグラスをとって口直しする。
「残したらもったいねえからさ」
誰にともなく言い訳をした。
「もー、ママと姫が起きてこないなあ」
あやちゃんは腕まくりをしながら二階に上がって行った。ママと言っても本当の母親ではない、つーか女ですらない、オカマだ。そんな言い方はジェンダー何たらでダメだと、あやちゃんに怒られたが他の呼び名を俺は知らない。ちなみに姫もあだ名だ。そういえばコンロの火が掛けっぱなしだが、彼らの目玉焼きは無事だろうか。
「おはよう」
「あ、おはよ」
気配を消したまま幽霊のように向いに座ったのはメガネさんだ。入寮(別にここは寮でもなんでもないけど)ともかく入寮当初まったく口を聞かずに名前も名乗らなかったこの男は、その外見的特徴だけでメガネさんになった。
「キャー! フライパン、フライパン!」
ドタドタと階段を駆け降りてくるあやちゃんを見て、賑やかな家だなぁと感心した。昔は二人きりで静かな――。
そこまで考えて誰と二人きりだったのか思い出せない。記憶の中に確かにいるのに、その人物が黒いモヤがかかったように曖昧だった。
「あれっ? コンロ消してくれたの陸人?」
「ん? ああ」
考え事をしながら適当に返事した。なにか大切なことを忘れているような。小骨が喉につっかえたような気持ちの悪い感覚。それでいて絶対に思い出さなければならないような切迫感。
「陸人、ちゃんと黄身も食べるのよ」
黄身は弥太郎の皿に移籍済みだ、すでに胃の中に収まっているだろう。と、自分の皿に視線を落とすと、白身を綺麗に剥がされたまん丸の黄身が皿の中央に鎮座している。
馬鹿な、確かに弥太郎の皿に移したはず。よもや奴が大好物の黄身をこちらの皿に戻すとは考えにくい。ジッと、パンを頬張る弥太郎の横顔を凝視する。
「なに?」
「あ、これ」
皿をスッと差しだすと「サンキュー」と言って目玉焼きの黄身は攫われていった。
「あー、またぶーちゃんに黄身を献上してるー」
高校の制服を着た姫が俺の左隣に座る。ぶーちゃんとはもちろん弥太郎のことだ。姫に恋心を抱いている弥太郎からすれば、好きな女の子にぶーちゃんと呼ばれているのはどんな心境なのだろう。
「あやちゃーん、陸人がまた黄身だけ食べてないよー」
「てめっ、なにチクってんだよブス」
「だーれがブスだ? この美少女をつかまえて」
姫は俺の頬っぺたを右手でギリギリとつねり上げた。その様子を羨ましそうに弥太郎が見ている。変わってくれ。
「うそですうそです、姫は誰よりも美しいです」
ふっと力が抜けて左頬は解放された。細いくせにすごい力だ。ジンジンする頬をさする。
「朝からバカやってんじゃないわよ」
最後に登場したママは弥太郎よりも更にデカい。すでに化粧はばっちりだ。制服を着ている姫といい、この二人は寝坊していた訳じゃなさそうだ。
長方形のダイニングテーブルに六人全員が揃ったが、なぜか目玉焼きの皿が一つ多い。すぐにみんな気がついた。
「なんで七人分あるのよ?」
お誕生日席に置かれた皿を指さしてママが言った。
「あれ? なんでだろ」
あやちゃんは天然だ。ティーシャツはいつも後ろ前だし、風呂に栓をしないままお湯を貯める。薬缶で味噌汁を作った時には「注ぎやすくていいでしょ」と真面目な顔で言った。具が出てこなかったのは言うまでもない。
「じゃあ僕が頂こうかな」
弥太郎が手を伸ばすと、姫が狙いを定めてベーコンだけを、猛禽類が滑空するような素早さで奪い取った。
「ぶーちゃんは油を控えた方がいいわ、協力してあげる」
「あ、ありがとう姫。僕のために……」
弥太郎は大真面目だ。
「それを愛と呼ぶのよ」
ママが茶々を入れる。
「ポッ」
姫、それは擬音語であって自分の口で発するものでは決してない。
結局、違和感の正体が掴めないまま中学校の制服に着替えて玄関の扉を開けた。朝から夏の日差しが容赦なくアスファルトに照りつけている。振り返ると相撲部屋にあるような木の板に『すみれ荘』と筆で書かれた看板が掛けられていて、比較的新しい外観の一軒家にそれは異質に浮かび上がっていた。
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