田村弥太郎⑫

1/1

13人が本棚に入れています
本棚に追加
/55ページ

田村弥太郎⑫

『七月四日 火曜日。今日一番運勢が良いのは乙女座のあなた。何をやってもうまく行く、年に一度のラッキーデイは――』  今日は何をやっても上手くいくのかぁ。僕はご飯をかきこみながら、寝ぼけた頭を覚醒させようとブラックのコーヒーを飲み干した。隣に座る陸人は珍しく焼き鮭を半分以上残している、確かに皮の部分が真っ黒に焦げているけど食べられないほどじゃない。 「もったいない、もったいない」  横から掻っ攫った後にチラと陸人の奥に座る姫を伺う。いつもならば何らかの突っ込みが入るけど、今日はやけに神妙な顔で鮭をつついている。何となくいつもと違う食卓に疑問を感じながらも、学校の制服に着替えるために二階に上がると、野球帽を目深に被った陸人とすれ違った。 「あれ、なんで私服?」  僕が聞くと「今日は私服デーなんだよ」と言って、逃げるように階段を降りて行った。すぐにピンときた。  サボる気だな――。  その理由は不明だが、陸人のお目付役、兄貴がわりの自分としてはほっておける事案ではない。また不祥事を起こしでもしたら顔向けできない。  そこまで考えて誰に顔向け出来ないのだろう、と、思い直す。しかし今はそれどころじゃない。急いで部屋に入り、速攻で制服に着替えて階段を駆け降りた。玄関を出るとすでに陸人の姿は無い。 「遅かったか……」  さすがにノーヒントで探すのは現実的じゃない、少し早いけど学校に向かう事にした。自転車にまたがり漕ぎはじめようとした時に、玄関脇に貼られた『すみれ荘』の表札が目に入った。    ――今日からは弥太郎くんも家族だから園部の表札は変だなぁ、よし、すみれ荘にしよう。なんか良くない?  懐かしい声が脳内で再生される。確かな記憶なのに夢のように曖昧で現実感のないそれが、一体何なのか正体が掴めないままでペダルに足を掛けた。最寄駅に到着して大宮方面の電車を待っていると、野球帽を被った陸人が列に並んでいた、上野方面の電車はこの時間帯は混雑していて一回では乗れない事もある。僕は素早く時刻表の看板に身を隠した。  どこに行く気だ? 目的地がどこにせよ発見したからには尾行するしかない。自分がコソコソと人の後をつけるには相応しくない体型だとは重々承知、男にはやらねばならない時もある。 「何してるの?」 「ヒィー!」  急に声をかけられてビックリして振り返る。姫が目を丸くして僕を見つめていた。 「ちょっと、その驚き方は失礼ね」 「あ、ごめん」  誰かいるの? 姫は僕が観察していた方に目をやった。 「あれ、陸人?」  今にも歩み寄って声をかけに行きそうな姫を制した。 「ちょっと僕が様子見てくるから、悪いんだけど先生には遅刻するって言っておいて」 「ふーん、ねえ弥太郎」 「な、なに」 「なんか忘れてない? 大切な事」  大切なこと――。姫の誕生日は十一月だし、映画の約束は今週末。学校の宿題はやってあるし、一体何のことだろう。そんな事を考えている間にブルーの車両が駅に滑り込んできた。吐き出された乗客よりも沢山の人間が汲々の車内に無理やり詰め込まれていく。 「じゃあ、よろしく!」  姫に軽く手を上げて別れを告げると、陸人から扉一つ離れたドアから何とか車内に侵入した。川口、赤羽、東十条、王子。人の混雑が収まらないまま僕、は虫の息になりながらなんとか陸人を視界の端に捉えていた。  やっと解放されたのは上野駅だった。大勢の乗客が一気に下車していく中で、僕も押されながらホームに降り立ち、隣の車両からは、朝のラッシュに場違いな私服中学生がぺっと吐き出された。そして、その流れに乗って陸人は階段を降りていく。  すっかり汗だくの僕を女子高生が汚物を見るように一瞥して、逃げるように離れていく。いつかの記憶が蘇る、あの頃は学校中の人間があの目で僕を見ていた。蔑むように、見下すように。  いつの間にか黒いキャップは遥か下まで降りていて、僕は急いでその頭を追いかけた。陸人はそのまま常磐線のホームに向かい、すでに停車している電車に乗り込んでいった。水戸行きと書かれた白い車両は先程の電車よりもガラガラで、同じ車両に乗ったならば、たちまちバレてしまうだろう。僕は陸人が乗車した隣の車両に乗り込んだ。連結部分のすぐ横、三人掛けの端に座り隣の車両を覗き込む。都合よくポツンと座る陸人の姿がしっかりと確認できた。  それにしてもどこに向かっているのだろうか。そんな事を思案しているうちに駅と駅の間隔は段々長くなってくる。乗客もほとんどいなくなり、空調の効いた車内で僕はついウトウトしていた――。 「あれだよ、あのデブ」 「公開オナニーの?」 「そうそう」 「動画見た?」 「見てないんだよ。すぐに消されちまったんだよな」 「見たかったなあ」 「あれやらせたの後藤と鎌田なんだろ?」 「マジかよ、外道じゃん」 「ぶん殴られて入院してるよ」 「すげーな、このご時世にそんな気合い入った先生がいたとは」 「とうぜんクビだけどな」 「あーあ、好きだったのになあ。――先生」  夢の途中でいきなり回線が切れたように僕は目を覚ました。ここはどこだ? 辺りを見渡す。見慣れない車両には乗客が二人しかいない。すぐに陸人を追って常磐線に乗ったことを思い出したけど重要なのはそこじゃない、たった今みていた夢の内容を思い出す、油断したらそれはすぐに忘却の彼方にいってしまうような不安定な記憶。手のひらから砂がこぼれ落ちない様に慎重に頭を回転させる。 「――先生……」  肝心の部分が思い出せない、それはまるであるはずの記憶の部屋に鍵がかけられていて。その部屋の鍵を開ける事が出来ないもどかしと歯痒さが混在していた。  しかしその刹那、僕を支配したのは圧倒的な恐怖感だった。僕は頭が混乱しながら空調の効いた車内でポタポタと汗を垂らした。体験したことのない不安が体中に纏わりついて離れない。 『石岡〜。石岡〜』  車内アナウンスにハッとして振り返り、窓の外を見ると数人が電車を降りて改札に向かって歩いていく。みな一様に車内との温度差に心底辟易したような表情を隠そうともしない。サラリーマン風の男が目の前を通り過ぎた後に、顔面蒼白の陸人が横切っていった。しまった、と思い身を隠そうとしたが、陸人はコチラを気にするそぶりも見せずに通り過ぎていった。僕は急いで鞄を掴むと、車内を飛び出して後を追った。  そこからはまさに地獄だった。目的地も分からないままに、陸人の小さな背中について行く。容赦ない太陽の日差しを全身に浴びながら、陸人は一度も振り返らない。最初の方こそ電信柱に身を隠したり、距離をかなり開けたりと気を使っていたけど、あまりの暑さに途中からはどうでも良くなった。そしてもう限界だと感じた時だった。陸人はおもむろに坂道を走り出して姿を消した。しかし、残念ながら僕にそれを追いかける体力は残っていない。目の前にある小さな池の水を飲んでしまいそうになるくらい僕の体は枯渇していた。  池の脇にある大きな木の下に僕は座り込んだ、影になっているだけで体感気温は一気に下がる。頭上からは狂った様に泣き叫ぶ赤ん坊の様に、その体躯からは想像できない蝉の大きな鳴き声が降り注いで来る。呼吸が落ち着いてきて、そろそろ立ち上がろうとした時だった、陸人が坂道を下ってきて来た道とは逆の方に歩いて行った。少し首を横に向けたら発見される所だったが、真剣な陸人の表情は一点しか見えていないのか、かなり切羽詰まっているように感じた。この段になるともう見つかってもいいや、と考えていたがすぐ後ろをついていく僕をやはり陸人は振り返らなかった。  少し歩いて一軒のオシャレな家の前で止まった。躊躇いなくインターホンを押すところを見ると知り合いの家だろうか。その場に立ち尽くして様子を見ていると、派手なおばさんが玄関から出て来て、陸人はその家に入って行った。やはり知り合いの家だったか。僕はため息をついて、その家の庭先から生えている木が作る木陰に入り腰を下ろした。 「あー、喉乾いた」  辺りを見渡しても自動販売機の類は一切ない。なんて辺鄙な所だ。いつ出てくるか分からない陸人を待っていたら干からびて死んでしまう。僕は何とか立ち上がると来た道を引き返して陸人が登って行った坂道を見上げた。  この坂、見たことがあるような気がする――。  なぜだろうか? ここを少し登った場所に自動販売機がある。それは予感じゃなくて遠い昔にこの場所にきた記憶だった。 「やっぱり……」  都会には無いタイプの細長い自動販売機は、横一列に五種類の缶ジュースが並んでいる。慌てて財布から小銭を取り出すと、コイン投入口に百円玉を入れてみた。しかし『カチャン』という予想通りの音と共に釣り銭口から拒絶された百円玉が出てくる。 「はあ……」  ため息をついて坂の先を見つめると懐かしい景色、いや、正確にはこの場所に来たことは一度もないから懐かしいという表現は違う。なのにやけに記憶の端っこを刺激する。ふらふらと坂を登ると開けた場所に一軒の平屋が見えてきた。やっぱりどこか懐かしい。  建物の引力に引っ張られるように玄関の前まで来た。どうやら廃墟のようだ。足元に転がる木の表札を見て頭を内側から叩かれたような頭痛がした。 「宇野――」  どこかで聞いたような。それはとても大切な事だった気がする。引戸に手を掛けるとカラカラと抵抗なく玄関の扉は開かれた。中に入るとひんやりとした空気が首筋を優しく撫でた。とりあえずここで少し休憩しようと、上り框に腰をかけるとドッと疲れが押し寄せてきた。かれこれ二時間歩きっぱなしだ。喉の渇きと共に空腹でお腹が鳴った。僕は鞄を開いて中身を全部ぶちまけた。数冊の教科書と一緒にうまい棒が二本も滑り落ちてきた。 「やった」  声に出して喜んだ刹那、冷静になる。確かにこれを食べれば多少は腹が膨れる。しかし、口の中の水分は余す事なく持っていかれるだろう。僕は悩んだ。いや、悩んだフリをした。そしてすぐにうまい棒の袋を破り、齧り付くと案の定、乾いた口に張り付いて上手く飲み込めない。喉につまりそうな、うまい棒を何とか飲み下した。 「ふー。喉乾いたなぁ」  独りごちて教科書を鞄にしまっていると、見覚えのない御守りが落ちていた。 「何だこれ?」  何処にでもありそうな、普通の御守りだけど自分で買った記憶は無い。触り心地から中に紙が入っているのが分かる。もしかしたらヘソクリかもと中身を確認すると、折り畳まれた紙が出てきてガックリする。何ともなしにその紙を広げた。  ――困ったことがあったらいつでも連絡してね!   園部先生より。🐜  可愛らしい丸文字の横に電話番号と住所。キャラクターみたいなアリのイラストが描かれていた。その瞬間、僕は勢いよく立ち上がった。まるで決壊したダムのように失われていた記憶が溢れてくる。優しい笑顔で「弥太郎くん」と呼びかけてくる園部先生の顔を鮮明に思い出した。 「どうして……」  どうして今まで忘れていたのだろう。小学生の時に僕を助けてくれた園部先生、お母さんに捨てられて途方にくれていた中学生の僕を、いつもの笑顔で受け入れてくれた先生。そういえば昨日も今日も園部先生は菫荘にいなかった。それが当たり前のようにみんな過ごしていた。僕も含めて。  曖昧模糊な不安が足元から迫り上がってくる。心拍数が上がって、心臓が飛び出してきそうなほど鼓動を速めた。僕は御守りを握りしめたまま玄関を飛び出した。坂を下り、陸人が入っていった家まで走った。  すぐに確認しないと。息を切らして目的の家に着くとちょうど陸人が家から出て来た。憔悴したように下を向いて、一緒に出て来たおばさんが心配そうに声をかけている。 「弥太郎……」  陸人が顔を上げて力無く呟いた。生意気でいつも自信たっぷりな陸人が初めて見せる、泣き笑いの表情をみて僕は全て思い出した。忘れていた方が良かったと思えるその記憶は、自らの意思とは無関係になだれ込んできた。 「なんで生きてるんだろう、僕たち……」  僕はうんざりするほどの不条理な現実を突きつけられて、再び絶望した。世界中の誰よりも。    絶望した――。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加