園部七海①

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園部七海①

 ここは何処だろう――。  目が覚めると真っ黒な天井が目の前に広がっていた。体が嘘みたいにふわふわと軽い、そして天井がやけに近くて手を伸ばせば届きそうな位置にあった。  右手をゆっくりと伸ばしてそこに触れてみると硬さも、冷たさも何も感じなかった。不思議な感覚だけど嫌じゃない。  振り返ると自分が宙に浮いていることに気がついた。薄暗い部屋の真ん中、顔に白い布がかかったまま横たわる人がいる。ストレッチャーのようなベッドに寝かされたそれが死体だと認識するのに少しだけ時間が掛かった。浮遊する自分が見ている非現実的な光景に中々思考が追いつかない。  ああ、夢か――。  とりあえず、ありきたりな解答で自らを落ち着かせると、リノリウムの床に着地した。夢だけあって空中での移動もお手のものだ。そして恐る恐る死体にかけられた白い布に触れようとした時だった。 「触れたらあかんで」  背後から急に声をかけられて「キャッ」と短い悲鳴をあげた。ゆっくりと振り向くと三十代くらいの男性がいつの間にか立っている。黒いスーツに黒いネクタイ。髪はオールバックになで付けていた。 「現世のもんに関与したらあかんねん」  するどい視線をコチラに向ける。私は彼の言葉の意味を計れないまま、夢なら早く目覚めてくれないかな、と考えていた。 「あの、ここは……」  沈黙に耐えきれずに質問すると、スーツの男は軽く頷いてから死体に近づいて、白い布を両手でゆっくりと取った。触れたらあかんて言ったくせに、と少し不満を抱いたけど黙っておいた。 「自分はついさっき死んだんや」  ストレッチャーに寝かされていたのは園部七海、つまり私自身だった。怪談話のようなオチにびっくりする事もなく、顎に手を添えて記憶を遡る。今日は確か――。  朝ごはんをすみれ荘のみんなに作った後に、在宅ワークをこなしてお昼は綾子とカップ焼きそばを食べた。うんうん、そうだ。夕飯の買い出しに行こうとしたら雨が降ってきたから自転車は諦めて歩いてスーパーに向かった。豚肉が安かったから豚汁を作ろうと長ネギとにんじんを買い物かごに入れた記憶がある。両手いっぱいになった買い物袋を持って店をでて……。 「あっ!」  顎に添えていた手で口を軽く塞いだ。 「思い出したか?」 「こんにゃくを買い忘れて戻ったんだ!」  スーツの男は膝をガクッと落としてずっこけた。 「その後や」  促されて記憶を遡ってみると、コンニャクを買い足した後に店を出ると雨は止んでいて西の空に夕焼け空が広がっていた。目の前を雨がっぱを着た小さな女の子が通り過ぎる。ピンクの雨がっぱは少しだけ大きくて、被ったフードで前が見えてるか心配になった。 「車に気をつけるのよー!」 「はーい!」  後ろからお母さんが声をかけると女の子は元気に返事をした。私は微笑ましい光景を目を細めて眺めていた。信号が青に変わると女の子は右手を上げて横断歩道をかけだした。 「ほらほら、転ぶわよー」  パタパタと走る後ろ姿、小さな背中を見つめる私の視線の左端に猛スピードで突っ込んでくる軽トラックが目に入った。  ぶつかる――。  考えるより先に私は両手の買い物袋をその場に放って小さな背中を追いかけた。周りがスローモーションになって運転席に座る初老の男が居眠りしている事が分かった。足を一歩づつ前に出すけどなかなか前に進まない。その代わり軽トラックもなかなか迫ってこない。私は女の子に向かってダイビングすると両手で思い切り突き飛ばした。女の子は歩道まで勢いよく転がっていき私はその場にヘッドスライディングして膝と肘を濡れたアスファルトに強打した。久しぶりだなぁ、なんて呑気な事を考えている刹那、すでに軽トラックは目の前にあって私の視界を黒く塞いだ。 「轢かれた……。私」 「せやねん」  スーツの男はバツが悪そうに白い布を私の死体に掛け直した。その眼は憂いを帯びている。 「あの子は?」 「無事や、かすり傷ですんだ」 「良かったぁ」  スーツの男はため息をついて天井を見上げた。すると霊安室と思しき部屋の扉が勢いよく開いた、私とスーツの男が視線を送ると弥太郎くんが巨漢を揺らして入室してきた。紺のブレザーに鞄、どうやらちゃんと学校に行っているようで安心した。
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