後藤 翔①

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後藤 翔①

「正解、さすが後藤だな」  黒板にチョークで回答を記入すると、クラスから歓声が上がった。この程度の問題で騒ぐ猿たちと同クラスにいることに辟易するが、同時にえもしれぬ恍惚感が全身を支配する。愚民は数パーセントの支配者、勝ち組、精鋭、エリートを崇拝するためには必要悪だと理解していて、もし彼らがいなければ優越感を持つ相手がいなくなる。つまりこの恍惚感を味わえないということだ。羨望の目で俺を見つめるクラスメイトに軽く手を振った、同時に黄色い声援があがり先生から注意をされる。先生などと偉そうな肩書はあるが、高校の教師など俺から見たら下の下に等しい。  頭脳明晰、容姿端麗。父親は上場企業の会社経営、再婚した母親、つまり義母は有名雑誌のファッションモデル。周りの過剰な期待は重荷に感じるどころか俺にとっては名誉な事だった。それだけのポテンシャルが俺にはあるのだと。八百屋に魚を注文する馬鹿はいないように。  俺には期待に応えるだけの能力がある。もちろん努力もしてきた、勉強だけじゃない、頭が良いだけのガリ勉なんて今どきは流行らない。水泳、陸上、サッカー、野球。何をやってもナンバーワンだ。高校の部活動に野球を選んだのは、高校スポーツにおいて甲子園は圧倒的に注目度が高くて目立つから。バスケットでインターハイに出たからと言って、社会人になってから自慢になるか? 日本においてはノーだ。その点、甲子園のマウンドに立つというのは、この先何年経っても色褪せない記憶と記録となるに違いない。最後の夏まであと一年、準備は万全だ。そう。  完璧な人生――。    のはずだった。   「小学生の時に、女教師に殴られてうんこ漏らしたんだって?」 「は?」 「俺が言ってる塾に翔の同級生がいてよ、そいつが言ってたんだよ。後藤くんてカッコつけてるけどうんこ漏らしたんだよって」 「ちょ! 馬鹿」  後ろに座る真田が耳打ちしてきたのは、俺の人生における唯一の汚点、忘れたい過去の記憶。 「うんこじゃねえよ、小便だ」  半身になって後ろを向き、真田の耳元に顔を近づけながら小声で訴えた。くそッ、この高校には小学校の同級生が一人もいないからと油断していた。 「どっちでも一緒だろ?」 「一緒じゃねえよ」 「まあ、小学生の時の話なんか気にするなよ」  凡人、普通の奴、無才能、価値のない人間達はみな口々にそんな無責任な事を言うが、それは怠惰に満ちた汚れ切った人生を生きてきた人間のアドバイスだから、俺にはなんの意味もない。きったねえ紙に汚れが一つ加わった所で誰も気にしない。しかし真っ白い紙に墨汁を垂らせば嫌でも目立つ。人生の汚点だ。しかし過ぎ去った事実は変更する事も、記憶から抹消する事も叶わない。あの時に味わった感覚。小便を漏らすほどの圧倒的な恐怖は今でも鮮明に思い出す。    絶対に許さねえ――。    下民であれば昔の話と諦めるだろうが俺は違う、小学校の女教師程度の猿に、トラウマを与えられたまま平々凡々と余生を生きていけるほどボケちゃいない。あの女には必ず復讐する。そう誓ってこれまで生きてきた。  しかし小学生、中学生の身分ではいくら才能あふれる俺と言えども何も出来ない、そもそもあの女は事件の後にすぐに首になり(あたりまえだが)その後の消息がまるで分からないのだ。だから俺は磨いた、いつか訪れる復讐のチャンス、過去の清算。そのために抜かれる事がない日本刀を研ぐように、精神と肉体を研磨してきた。  なにより恐ろしいのは、この気持ちが時間と共に風化してしまう事だったがそれには及ばない。たった今思い出しただけで(はらわた)が煮え繰り返るほどの怒りが全身を駆け巡っている。 「大丈夫か?」  真田が目の前で手をブンブンと振っていた。 「ん、ああ」 「それより、放課後ちょっと付き合ってくれよ」  真田はお漏らしの話はさほど興味がないのか、すぐに話題を変えた。数学の教師がチラとコチラを見たが何も言わずに黒板の方に向き直る。まあそうだろう、俺はもちろん真田も学力じゃナンバーツーだ。だからこそ対等に近い関係を築けている。 「部活だよ」 「雨だぜ?」 「室内練習場の存在を知らないのか?」  甲子園の常連校、設備は抜群だ。 「その室内練習場が雨漏りで工事中って知らないのか?」 「そうなのか?」 「ああ、三組の三宅からの情報だから信用できる」  真田は各クラスに友人がいて、どんな些細な情報も網にかける。俺のお漏らし事件を入手したのもコイツなら頷けた。 「だから頼むよ。埼玉スーパーアリーナの握手会に瑠璃菜が来るんだよ」  真田に分かるように大きなため息を吐いた。瑠璃菜とは某アイドルグループのメンバーで真田の推し、そして俺の小学校時代の同級生だ。その頃から芸能人の真似事をしていたが、今はアイドルグループのメンバーになったようだ。それが栄転なのか左遷なのかは分からないが、最近テレビでよく見かけるようになったから前者なのだろう。 「分かったよ」 「そうこなくっちゃ!」  真田の情報は役にたつ。唯一の友人に臍を曲げられても面倒だ。なにより。  高校生になった橋本瑠璃菜に多少の興味があった。
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