高遠 誠一郎②

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高遠 誠一郎②

 しんと静まり返ったすみれ荘のリビングは、まるで世界から断絶された空間のように現実感がなかった。エアコンも付いていない初夏の夜にも関わらず、足元から冷気が漂ってくるような錯覚さえ覚えて私は立ち上がった。キッチンの戸棚からママの飲んでいるスコッチを拝借してグラスに少しだけ注ぐ。  ストレートで一気に飲み干すと喉が焼けるような感覚の後に胃がカッと熱くなる。酒はあまり強くないのでそれだけで脳が痺れた、目の前が浮遊するように歪む。私はその場に崩れ落ちるように膝を付いたがそこには『せんせーい!』と呼びかける生徒も『メガネさん』と笑いかけるすみれ荘の住人もいなかった。      教師になって十年、私は結婚して娘を授かった。妻の玲子は大学の後輩で、数年ぶりに取り行われたOB会で再開。彼女も小学校の教師をしていたので二人が話題に事欠く事はなく、距離が縮まるのも早かった。 「せいちゃんは生徒に向き合い過ぎだよ。今時そんな先生いないんだから、昭和みたいよ」  そう言って微笑んだ妻は、ぽっこりと膨らんだ場所に宿る新しい生命を慈しむようにゆっくりとお腹を撫でた。その姿は私には女神のように神々しく、本当にぼんやりと体から光を放っているようにすら見えたものである。  順風満帆、そう言って差し支えない人生だったと思う。娘はスクスクと育ち仕事も順調だった。もちろん細かい事件は度々あった。毒親、モンスターペアレント。近年増加している流行りの保護者は多分に漏れず私のクラスにも存在した。時代が変われば教育も変わる、教育が変わればクレーム内容も変化していくものだ。そんな親たちに私は真っ向から立ち向かった。すべての生徒の幸せを願い、叶うならば大人になっても皆で集まるようなかけがえのないクラスメイト。小学校はそんな友を作るための教育の場であると、そうであってほしいと考えていた。  例えば小学五年生の息子を持つ母親からこんなクレームがあった。 『亮太がなぜ怒られなければいけないのか、キチンと説明を求めます!』  放課後、真っ赤な顔で乗り込んできた四十代の母親は唾を飛ばしながら捲し立てた。派手な格好とは言わないが、四十過ぎにしては些か若造(わかずく)りに見えるその姿はいわゆる美魔女というやつを目指しているのだろう。顔は痩せて顎が尖っているが、短めのスカートから覗く膝にはしっかりと年輪が刻まれている。妻がこういったスタイルを目指したらどうやって引き止めようかなどと見当違いな妄想をしていた。  よく見れば傍には亮太が苦虫を噛み潰したような顔で俯いている。察した私は母親を宥め賺しながら毅然とした態度で対応した。まずは教室に案内して二人を椅子に座らせる。職員室には他の先生の目があるので敢えて三階まで移動してきたのだ。これは生徒を叱る、注意する場合にもそうだが、皆がいる前では決して叱らない。プライドを傷つけるし、二人きりの方が本音を引き出せるからだ。 「亮太、お母さんにちゃんと説明したのか?」  放課後の教室には夕陽が差し込んでいて、先ほどまでの喧騒は幻のように失われている。その影の中で亮太は下を向いたまま何も答えない。焦れたように母親が割って入った。 「久保さんのお宅が貧乏で借金をしているのを指摘したら、先生に叱られたって亮ちゃんが言ってますがどーいうことでしょうか?」  彼女はワナワナと唇を震わせながら、人権侵害だと言わんばかりに口を尖らせる。 「お母さん、借金ではなくて生活保護です」  こいつは亮太を説得するよりも難儀そうだ、得てしてそういうものだから特段珍しい事とも言えないが。 「せ、生活保護! この学校ではそんな家庭の生徒が一緒に勉強してるの? 考えられない、だってあれでしょう? 生活保護って働きもしないで国から私たちの税金で毎月お金を貰う惨めなあれよね? そうでしょ? 社会不適合者、犯罪者予備軍、そうだ、反社よ」  先入観もここまでくると被害妄想に近い、私は表情を変えずに立ち上がり黒板に向かった。彼女には少し知識が必要だと判断したのだ。 「お母さん、経済については詳しいですか?」 「は?」 「日本の経済です、どうでしょうか?」 「ま、まあ人並みには……」 「そうですか、では日本にはどうして生活保護というシステムがあるかご存知ですか?」 「え、そりゃあ、餓死とかされたら困るし……」 「その理屈では現金支給の説明がつきませんね」 「え、ああ、まあ」 「現金支給をされた生活保護者はそのお金で食べ物を買ったり生活に必要なものを購入します、中には娯楽もあるでしょう」  私は黒板に水やパン、自転車や洗濯機などお金の使い道となる物を簡単なイラストで書いた。 「するとパンを買ってもらったパン屋さんは儲かりますね、儲かったお金で新しい自転車を買いました」  パンのイラストから矢印を引いて自転車に向ける。 「自転車を買ってもらった自転車屋さんは儲かります、その儲かったお金でテレビを買いました、つまり生活保護とは日本の経済を循環させるために行われているのです」  小学生に教えるようなやり方、実際亮太にも同じ説明をしたが母親は納得がいかない様子だ。 「でもそれは自分が働いて物を買えばいい話ですよね? 人のお金でなんてズルいじゃないですか」  他人が一円でも得をするのは許せない、そんな浅ましさが隣にいる亮太にも伝わったのか彼はいっそう下を向いてしまった。亮太のためにも早めに決着をつけねば。 「働きたくても事情があって働けない、そんな家庭も存在する事は分かりますよね?」 「分かりますけど……。それは自業自得と言うか」 「なるほど……では例えば国がそんな国民を一切無視して救済をしないで放っておくとしましょう、一方で税金はむしり取り何、に使っているかも分からないまま生活は一向に向上しない、年々上がる税金と物価、その行き着く先はなんだと思いますか?」 「……」 「戦争ですよ」 「は?」 「お母さんの考えはかつてのヨーロッパや戦時中の日本と同じです。貧しいから、食べれないから他の国を侵略、強奪、つまりは殺して奪う。そう考える国民が出てきます、大多数の意見はそのまま政治に反映され戦争に発展します」 「そんな事……」 「だからこそ政府は救済措置を与えるのです、この国は働けなくなっても最低限生きていけるだけの保障はしますよ、安心してください、と。つまりお母さんの言っている事は戦争推進派の意見なのです。わかりますか? 経済を回すためにも、二度と戦争と言う悲劇を繰り返さないためにも生活保護を受けるのは国民の義務なのですよ」 「……でも」 「お母さん、だから言ったじゃん」  亮太が母親の袖を引いて訴えた、なるほど、彼なりに説得は試みてくれたらしい。 「それに久保くんは非常に優秀な生徒です、将来立派な会社に勤めて多くの税金を納めてくれたら結果としてそれは日本の為になるのですよ。もちろん頭の良し悪しで救ったり救わなかったりするのは論外ですが。なにより亮太のかけがえのないクラスメイトです。つまらない事で喧嘩して欲しくないじゃないですか」  そう言って母親に微笑みかけると、先ほどまで息子がそうしていたようにガックリと項垂れた。 「お母さん! 俺もっかい、ちゃんと久保っちに誤ってくるわ、先生バイバイ!」  言うや否や亮太は立ち上がり、風のように教室を去って行った。顔を上げた母親はバツが悪そうに上目使いでコチラを伺う。私はそれにただ静かに頷いた。彼女に悪気がない事は分かっている。一人っ子が増えた現代では過剰な愛情を子に注ぐ親が増えているのも事実だ。甘やかされ、善と悪の区別が曖昧なまま大人になっていく彼らが未来の日本を支えていくのだ。私はせめて親が言うことがすべて正しいわけじゃないと子供達に知って欲しかった。自分で見極める力を養ってほしいと。  しなし、そんな理想論、教師としての矜持など結局何一つ役に立たない、海底撈月(かいていろうげつ)なのだと知ったのはこれよりまだ少し先の事だった。
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